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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene11 槍ヶ岳

「日本アルプス十二題」とは、明治から昭和にかけて活躍した山岳画家の第一人者・吉田博が、北アルプスを題材に制作した木版画シリーズ。ここでは毎号、吉田の足跡をたどって、日本アルプスの各地を訪ねます。今回の舞台は『槍ヶ岳』。

04/05/2024

博にとっての日本アルプス

6月に入ると上高地はすっかり夏の装いになっていた。仰ぎ見る山々は灰青色の岩肌と白い残雪とのコントラストを際立たせ、瑞々しい空気を透かして光が降り注ぐと残雪はさらに白く輝きだす。

天を突き刺す均整のとれた三角形の岩峰。近代登山が輸入されて以来、槍ヶ岳は今も変わらず多くの登山者に親しまれている。山岳風景画家の吉田博もまた槍ヶ岳を好んで描き、自宅の居間には「槍ヶ岳と東鎌尾根」という自作の壁画パネルを飾っていた。彼は槍ヶ岳を次のように表現している。

「日本アルプスには槍ヶ岳を中心として、諸方に断崖の標本と呼んでも差支へのないやうな素晴しい断崖が聳えてゐる。…(中略)…槍ヶ岳の断崖は一大奇観とも呼ぶにもふさはしいもので、断崖一面に無数の割目が縦横に走つてゐる。そしてそれが槍の頂上から遙かに高瀬川まで降つてゐるのである」

彼の著書『高山の美を語る』には主な縦走記録が列挙されており「島々から上高地を経て槍ヶ岳へ。中房から槍、穂高を経て上高地へ。牧から常念、槍を経て上高地へ。大町から烏帽子、槍を経て上高地へ」とあるように、槍ヶ岳が彼の山旅で重要な存在だったことがうかがえる。

若葉から溢れる木漏れ日が、ハルニレの巨樹の下一面に絨毯のように咲き乱れるニリンソウを明るく照らす。エゾムラサキやスミレなど、初夏の森は多種多様な花々に彩られている。梓川を渡る爽やかな風が汗ばんだ背中を吹き抜けてゆく。

初夏の上高地はさまざまな花で彩られる
illustration | Yohei Naruse

横尾で野営した翌日、清澄な雪融け水が流れる槍沢に沿う山道を辿った。早朝の冴え冴えとした空気が立ち込める谷間。朝露に濡れたニリンソウが頭を垂れるように花弁を閉じている。谷の奥に、朝日に照らされた残雪の山が淡く幻影のように浮かび上がっている。やがて深い谷にも光が射し込んできた。背中を射る強い陽射しに後押しされるように、槍ヶ岳へと続く長い道を登っていった。

槍沢ロッジを後にするとすぐ、折り重なる山影の奥に槍ヶ岳の穂先が小さく見えた。頂上はまだ遠い。槍沢ロッジの前身、槍沢小屋(博が山へ赴いていた当時はアルプス旅館と呼ばれていた)があったババ平まで来ると視界が開けた。雪に埋もれた谷はうねるように続き、いたるところに割れ目が口を開けている。その割れ目を避けながら、あるいは飛び越え、雪の回廊を落石に注意しながらステップを切って登ってゆく。少しずつ谷が開けてくると稜線が見渡せるようになった。数日前に新雪が降ったのだろう。このあたりの雪は茶色なのだけれど稜線近くは純白で、その白さが灰色の岩に清浄な青を与えている。広い雪面のただ中に三つの黒い人影が見える。傾斜が増してきたのでアイゼンを取り出した。

北米、ヨーロッパアルプス、ヒマラヤなど、世界各地の山々を旅し、その風景を描いた吉田博。槍ヶ岳は「日本のマッターホルン」と称されるのだが、ヨーロッパのマッターホルンも描いている彼は、日本アルプスをどのように眺めていたのだろうか。彼はこんな記述を残している。

「欧洲のアルプスに咲く高山植物エーデルワイズの花を、木曾の御嶽で發見したといつてゐた人がある。そしてその人はそれによつて高山植物に於いても、日本アルプスが欧洲のアルプスに酷似してゐることを力説してゐた。が、それ程までに強いて日本アルプスが欧洲のアルプスに類似してゐることを強調するにも當るまいと私などには考へられる。殊更にエーデルワイズの花を見つけ出さずとも、こまぐさの花とつがざくらとがあるだけで、それだけで結構なのではなからうかと思つてゐる」

博にとって日本アルプスは海外の山に追従するものではなく、それらに勝るとも劣らない固有の山岳地帯だったのだろう。「日本の高山美で、外國に誇ることのできるものは、樹木がよく繁つてゐて、それが四季折々の美しい變化を示すことである。…(中略)…それともう一つ山岳の間を縫つてゐる谷川の水の澄明なことも、日本の高山美の一特色である。外國の谷川も多く見たが、日本の谷川ほど澄んだ水の流れてゐるのを見たことはない」と書き記すように、彼は日本アルプスの特長を客観的に捉えている。彼にとって槍ヶ岳は「日本のマッターホルン」ではなかったのだと思う。そして、風景だけでなく共に旅したかけがえのない人物がいたこともまた、日本アルプスを特別な山にせしめた要因だったのではないだろうか。

吉田博「鎗ヶ岳」1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

いつの間にか槍ヶ岳は大きく眼前に聳え立っていた。歩みを進めるごとに覆い被さるように迫ってくる。頂上直下には槍ヶ岳山荘が、その下には殺生ヒュッテが見えている。博の版画「鑓ヶ岳」と目の前の風景を比べると、殺生ヒュッテかそれよりもいくらか高い東鎌尾根付近から描かれたものだとわかった。

殺生ヒュッテ(当時は殺生小屋)は、小林喜作によって1922(大正11)年に開業された。小林喜作とは、博が「気立の善良な、極めて愛すべき男」と慕い、絶対的な信頼を寄せて日本アルプスを歩くたびに案内を頼んだ男である。喜作は山小屋を開く2年前に大天井岳から東鎌尾根を通って槍ヶ岳へと続く「喜作新道」を開設しており、その名前は博が命名したと言われる。しかし山小屋を開いたわずか1年後、喜作は雪崩で圧死してしまう。それは博が「日本アルプス十二題」を発表する3年前のことだった。喜作の面影を探しながら目の前の風景を眺めると、「鑓ヶ岳」が描かれた場所が殺生ヒュッテであれ東鎌尾根であれ、どこか喜作へのオマージュが込められているような気がしてならなかった。博は喜作とともに槍ヶ岳に登り、この風景を眺めた。彼にとって日本アルプスとは画題を探し求める場所であっただけでなく、愛すべき人々と何度も旅した忘れがたい場所だったのである。

殺生ヒュッテから仰ぎ見る残雪の槍ヶ岳
illustration | Yohei Naruse

西からガスが湧き始めていた。2日前に雪が降ったそうで、頂上へ続く岩場には夏の陽射しで融けた腐れ雪がついていた。アイゼンの爪をきかせてミックス帯を登り、辿り着いた頂上は真っ白いガスの中だった。かすかに切れたガスの間から、残雪を多く抱いたなだらかな山並みがどこまでも続いているのが見渡せた。北アルプスの中でももっとも奥深い黒部川源流の山々。すぐにガスに掻き消された山並みのどれかひとつに、「日本アルプス十二題」をめぐる旅の最後の目的地、鷲羽岳があるはずだった。

<PAPERSKY no.36(2011)より>


route information

いつの時代も登山者憧れの名峰として知られる槍ヶ岳。今回は6月上旬に訪れたが、残雪期はピッケルと10本爪以上のアイゼンが必要。一般的な登山シーズンは梅雨の明けた7月下旬から。上高地から槍ヶ岳山荘までは行程が長いため、横尾や槍沢で一泊するとゆとりのある山行になる。槍沢はゆるやかな登りが長く続くが技術的に難しい箇所はない。槍ヶ岳への最後の登りはクサリやハシゴが連続する岩場なので慎重に行動したい。登りと下りでルートが違うので注意。「喜作新道」は大天井岳から槍ヶ岳へ到る東鎌尾根につけられた人気ルート。大天井岳へは常念岳や燕岳から縦走できるのでぜひ歩いてみて欲しい。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。