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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene5 黒部川

明治から昭和にかけて、あくなき情熱をもって世界中の自然を描き続けた画家がいた。洋画家として、またのちに木版画家として活躍する吉田博である。そんな彼が生涯を通して描いたのが山岳風景だった。ここでは、北アルプスを題材に制作された全12点の木版画 「日本アルプス十二題」 の中から毎回ひとつの作品を取り上げ、彼の足跡を辿って北アルプスを歩く。80年以上の時を経た今、彼の作品は何を教えてくれるのだろうか。イラストレーター・成瀬洋平が、今回は吉田博の描いた『黒部川』を追う。

12/17/2021

変わるものと変わらないもの

重い鉄の扉を押し開けてトンネルから外へ出ると、身が引き締まる凛とした朝の空気が肌に触れた。黒部ダムが放水する轟音を聞きながら川原まで下る。飛沫が細かな霧となって吹き付けてくる。小さな橋を伝って対岸へ渡ると、なだらかな道が川に沿って下流へと続いていた。

鷲羽岳の頂上直下で端を発した一滴の雫がいくつもの沢と合流し、やがて一筋の激流となって断崖絶壁に囲まれた深い谷を流れ落ちてゆく。雪崩と黒部川の流れによって刻み込まれた黒部峡谷は、黒部ダムから上流を上ノ廊下、下流を下ノ廊下と呼ばれており、下ノ廊下には断崖絶壁を削ってつくられた幅1mにも満たない小径が延々と続いている。かつて電源開発のために拓かれた「旧日電歩道」である。1年のほとんどを豪雪で閉ざされるこの道は、もっとも雪の融けた秋から次の降雪までのごくわずかな期間だけ開通し、多くの登山者を迎え入れている。

その険しさゆえに容易に人を受け入れず、長い間人の目に触れることがなかった秘境、黒部峡谷。江戸時代には加賀藩が谷への立ち入りを禁止し、黒部奥山廻役という役人だけが立ち入りを許されたという。明治に入ると一般にも開放されるようになり、多くの登山者が黒部を訪れるようになった。1917(大正6)年になると、水量と河川勾配から水力発電所建設に適した場所だとされた峡谷に、初めて調査隊が足を踏み入れる。1920(大正9)年には欅平から仙人谷までの約13kmにわたる断崖を削って発電所の建設資材運搬を目的とした「水平歩道」が拓かれ、1929(昭和4)年には日本電力(現関西電力)によって仙人谷から上流へ16.6kmにも及ぶ作業道「日電歩道」がつくられた。これらの工事は困難を極め多くの犠牲者を出したものの、その後も国策として黒部の開発は続けられることとなる。吉田博が盛んに北アルプスへ分け入った大正時代は、このような開発が始まった時代でもあった。

世界中の自然を旅した吉田博(1876~1950)。北米をはじめ、ヨーロッパアルプス、エジプト、インド、ヒマラヤなどを題材とした数多くの作品を残した。
illustration | Yohei Naruse
眩しい朝日を浴びた大岩壁。見上げる山の上部は淡く霞んでいた。
illustration | Yohei Naruse

雲ひとつない青空の下で、標高差500m以上はある大岩壁が白い朝日を浴びて目の前に立ちはだかっている。あまりにも深く険しいため、谷底から山の頂を望むことはできない。迷路に迷い込むように、旧日電歩道は絶壁に挟まれた下ノ廊下の核心部へと続いている。しだいに自分がどこを歩いているのかさえわからなくなる。いつ崩壊するかもしれないスノーブリッジが谷に架かり、融けることのない雪渓が転がるようにして谷に落ち込んでいる。切れ落ちた断崖のはるか下を、わずかに白く濁った翡翠色の水が流れている。ザックが岩角にひっかからないように慎重に足を進めて行く。

深い谷に光が差し込むと気温が上がり、いきり立つような草の匂いが立ち上ってくる。冷たく、乾いた風が吹き抜ける坂道を下って行くと、沢が東西から同じ場所で黒部川に注ぎ込む十字峡に到着した。息を呑むほど透き通った清冽な水が午後の日差しを受けて青緑色に輝いている。剱沢から流れ落ちる滝には小さな虹が架かっていた。

絶壁につけられた小径の下は数十メートル切れ落ちていた。
illustration | Yohei Naruse
緊張感とともに黒部ダムを出発し、下ノ廊下へと足を踏み入れる。
illustration | Yohei Naruse
下ノ廊下の核心部、白竜峡。磨かれた白い岩の間を川が流れる。
illustration | Yohei Naruse

昭和6年に出版された著書『高山の美を語る』の中で、吉田博は次のような記述を残している。

「黒部川の沿岸は到る所断崖絶壁だが、その中でも最も壮大険峻な二つの断崖には、上の廊下、下の廊下という名称が与えられている。が、下の廊下の方は発電所が設けられた時にすっかり破壊されてしまったということなので、その時以来私は二度と行く気がしなくなってしまった。どんな風に破壊されてしまったのか、惜しいことをしたものである。上の廊下の方は幸いにして今も人手を免れているが、これは下の廊下に比較して少し小さいが、その神秘の感は下の廊下に優るとも劣らぬ美の断崖である。黒部川こそは文字通り幽谷であって、そそり立つ絶壁の底に流れているのは、澄明たとえるものもない水である。その水底には一々指摘することのできる、鮮やかな色彩を帯びた石が沈んでいる。それこそ高山渓谷美の極致である。むべなるかな、水の綺麗な日本でも、黒部川を流れる水ほど澄み透ったものはない。しかも上流約二十里の間は、雨が降っても水の濁るということがないのだから、いっそ神秘そのものにも譬えられようではないか。」

吉田博「黒部川」1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

深山幽谷にこそ自然の美しさがあると信じて山々へ分け入った吉田博は、大正13年に「黒部川」、昭和11年に「黒部川廊下」という作品を発表している。開発の後では下ノ廊下へ行く気がしなくなったというが、昭和3年には「多少発電所が出来て幾分破壊したにしても、神秘境には違いない」という記述も残している。

やがて時は下り、昭和31年には作業員数のべ1000万人を超え、171人にも及ぶ殉職者を出した黒部ダム(黒四ダム)の建設事業が着工される。それは吉田博が73年の生涯を閉じた6年後のことであったのだが、彼が愛した幽谷が高度成長期の電力不足を補うために大きく変貌を遂げ、一大観光地となることを彼は想像していただろうか。

アップダウンのない水平歩道だが転落には細心の注意が必要だ。
illustration | Yohei Naruse

下ノ廊下の開通を狙って訪れた登山者でごった返す阿曽原温泉小屋にテントを張り、翌日は夜明け前に出発した。標高1000mの等高線に沿ってつくられた水平歩道を欅平へと歩いて行く。多くの人々の歴史と哀しみが刻み込まれているはずの抉られた岩肌は、90年近い時を経た今、自然に溶け込むかのように濃い苔に覆われていた。

昼が近くなると雨が降ることを知らせるどんよりとした薄暗い雲が広がりだした。振り返ると深い谷に向こうに、吉田博が歩いた時代とほとんど変わらないであろう後立山連峰の稜線がかすかに見えていた。

<PAPERSKY no.30(2009)より>


route information

下ノ廊下ルートはまさに幽谷の絶景をたのしめる国内では数少ないルート。雪崩などで崩壊した道が整備されてルートが開通するのは例年9月下旬から10月上旬頃。ただし積雪量などによって開通しない年もあるので、富山県警山岳警備隊に問い合わせてみるのが無難だ。整備されたルートを歩くのは一般登山者でもそれほど支障ないが、黒部ダムから阿曽原温泉小屋まで山小屋はなく、常に落石と転落に注意しながら一日で20kmちかい道のりを歩き通す体力が必要。一度踏み入ったらエスケープルートはないので安易な気持ちでの入山は控えたい。コースタイムは7時間半程度。逆コースはさらに時間がかかる。雪渓もあるので、不安なら軽アイゼンを携行したい。黒部ダムへは長野県側の扇沢から入山できる。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。