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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene3 立山別山

明治から昭和にかけて、あくなき情熱をもって世界中の自然を描き続けた画家がいた。洋画家として、またのちに木版画家として活躍する吉田博である。そんな彼が生涯を通して描いたのが山岳風景だった。ここでは、北アルプスを題材に制作された全12点の木版画 「日本アルプス十二題」 の中から毎回ひとつの作品を取り上げ、彼の足跡を辿って北アルプスを歩く。80年以上の時を経た今、彼の作品は何を教えてくれるのだろうか。イラストレーター・成瀬洋平が、今回は吉田博の描いた『立山別山』を追う。

08/19/2021

「自然」と「人間」をつなぐ者として

尾根に出ると清々しい朝の日差しが照りつけてきた。目の前には岩肌の露出した立山連峰が、まるで天に浮かぶ城砦のようにどっしりと横たわっている。朝日を浴びたガスは淡い黄色の光を帯び、ガスに包まれると光の中にいるかのようにあたりはぼんやりと明るくなった。眼下には草原の鮮やかな緑と硫黄の黄色、砂の白さに彩られた室堂平が広がり、それより下は灰色の分厚い雲によって埋め尽くされている。日が高くなる頃には、雨雲が稜線まで上ってくるだろう。

富士山、白山と共に日本三霊山のひとつとして知られ、奈良時代後半にはすでに山岳信仰が行われていたという立山。登山基地となる室堂平には、現在でも「立山室堂」という日本最古の山岳宿泊施設が残されている。いつ建てられたのかは不明だが、1617年には立山室堂を再興したという記述があり、それ以前から存在していたことは確かだ。

手前の建物が「立山室堂」。博の作品では囲炉裏の煙が見える。
illustration | Yohei Naruse

19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本の山々では、ヨーロッパから輸入されたスポーツ的要素を多く含む「近代登山」が興隆を見せ始めていた。技師や宣教師として日本へやって来たヨーロッパ人は、ヨーロッパアルプスで鍛えられた登山技術によって日本の山に登るようになる。その中でもイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンは日本アルプスをはじめ多くの山々に登り『日本アルプスの登山と探検』(1896年)をロンドンで出版する。

1905(明治38)年にはウェストンの助言を受けた日本人によって国内初の山岳団体「日本山岳会」が設立され、登山熱が大衆に広がりだすと、より多くの人々が山に登るようになっていった。風景画家、吉田博がもっとも精力的に日本アルプスへ出かけるようになるのは、このような時代を経た大正年間のことである。

世界中の自然を旅した吉田博(1876~1950)。北米をはじめ、ヨーロッパアルプス、エジプト、インド、ヒマラヤなどを題材とした数多くの作品を残した。
illustration | Yohei Naruse
展望のきかない雨天だが、雨に濡れた草花はいっそう輝きを増す。
illustration | Yohei Naruse

早月川から入山し、剱岳を越えた博ら一行は、現在剱沢小屋のある三田平にテントを張った。翌日は立山を縦走する予定でいたが、激しい風のために一旦前進を諦め、荷物を置いたままテントを押し潰して重石を載せ、風をついて室堂へと下って行った。室堂に着くと雨になった。多くの登山者が雨の中を歩いて室堂に辿り着いては、また雨の中を出発して行った。山岳美を味わい、絵を描くために山に来た博は、このような登山者の行動に疑問を感じずにはいられなかった。

吉田博「立山別山」1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

「同じく山に登るにしても、人それぞれによって目的は違う。六根清浄を口に唱えて信仰のために登山する人もあるし、スポーツとして登山する人もあるし、或は研究のため、或は健康のため、或は単に見物のため、という風に目的は色々に違う。いずれにせよ、高山に登って、その美に魂を打たれないものは先ずあるまい。…だから私にいわせて貰うとすれば、スポーツ本位の登山家が高山の美の体得を二の次にして、妙な優越感や冒険欲を満足させるために登山して、往々にして不時の災難に遭遇し、はては身命までも犠牲にするような結果に陥る例は如何にも賛成し難い」

雨中や疲労困憊しながらの強行軍は危険なだけでなく、せっかくの「高山の美」も台無しである。雨天の時はじっと辛抱して晴天を待つ。それが博の山の歩き方だった。それでは、彼の言う「高山の美」とは一体何なのだろうか。

室堂のミクリガ池から眺める立山は立山を代表する風景だ。
illustration | Yohei Naruse

案の定、稜線はすぐに濃いガスに包まれて薄暗くなった。展望のきかない静寂の中で、吹きつける風と細かな砂を踏みしめる音だけが辺りに響く。なだらかなピークをいくつも越え、ゴロゴロと転がる大きな石を伝って歩みを進める。どこからともなく太鼓の音が聞こえてくると、神社が建てられた雄山の頂上はすぐだった。宮司が太鼓を叩き、参拝者にお祓いをしている。鳥居をくぐり、石段をわずかに登った先に社は鎮座されていた。あたりは濃い霧に包まれて展望はまったくきかなかった。

鳥居をくぐり石段を登った先に雄山神社は鎮座されている。
illustration | Yohei Naruse

「絶頂まで登りつくと、もはや人は遠く人間界を離れて、神の世界へでも近づいたような感覚に心を包まれる。高山特有の霊気とでもいうべき一種清浄な雰囲気があたりに漂っている。…そしてその山の連なりの尽きたるところ遥か遠く人間界の盆地が見える。人はこの時大自然の威力に打たれずにはいられない。そして同時に高山美の最も雄大なるものを感得するのである」

彼の言う「高山の美」とは、人間界では感得できない、崇高で霊気を帯びた山の美しさであり、彼はそれを感得し、絵という具体的なものとして再現せしめることを自らの仕事とした。彼は言う「画家は自然と人間の間に立って、見能わざる人の為に、自然の美を表して見せるのが天職である」と。

彼にとって「画家」とは「自然(界)」と「人間(界)」とを結ぶ者であり、人間の力を超越した、神の領域に触れることができるような存在ではなかっただろうか。それは山と里とを結ぶ山伏などの宗教者をも思わせる。山伏は山に分け入って行を積むことで一般の人間が持ち得ない「験力」を得るという。超自然的な「験力」が具体的に何なのかはわからないが、幽玄な雰囲気さえ漂う博の表現そのものが彼の「験力」の為せる業だったのかもしれない。それは、宗教として体系化される前から存在した土着の自然崇拝を基盤としつつ山の中で鍛え上げられた鋭敏な感覚であり、果てしないほどの練習と研究によって体得された卓越した技術だったのだろう。

別山から眺める立山。山肌を這ってガスが東へと吹き抜けていく。
illustration | Yohei Naruse

急坂を下り、五色ヶ原への縦走路に足を踏み入れると、雄山での賑わいが嘘のように人気がなくなった。ガスが細かな水滴となり、やがてその粒が大きくなって雨具をパラパラと叩きはじめると、ライチョウの群れがハイマツの下から姿を現した。雷雨を呼ぶ鳥とも言い伝えられる彼らに案内されるかのように、私は深い霧の中を歩いていた。

<PAPERSKY no.28(2009)より>


route information

立山とはいくつかのピークの総称で、最高峰は大汝山(3,015m)。浄土山(2,831m)、雄山(3,003m)、別山(2874m)を立山三山と呼ぶ。立山というと雄山神社のある雄山を指すこともある。今回は剱岳から別山を通って縦走したが、室堂から一の越山荘を通って直接雄山に登るルートもあり、2時間弱の道のりだ。後半は少々急な登りが続くものの、危険箇所はないので比較的楽に歩くことができる。標高2,450mの室堂平まではバスが通っており、3,000m級の山々を間近に望むことができる。上部が雪の白、中腹が紅葉の赤、下が緑の三段紅葉でも知られる。日本最古の山岳宿泊施設「立山室堂」は室堂山荘の隣に建っており、現在は歴史資料館として利用されている。吉田博が「立山室堂」に滞在した時には、最大で200人から300人もの人々が泊り込んだという。人気の高さは今も昔も変わらないようだ。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。