夜明けが遅い冬の朝、理由は知らないがなぜか警察の多い小田原厚木道路を、きちんと法定速度を守り走る。空がうっすらとオレンジ味を帯びはじめるころ、車を平塚のサービスエリアに滑り込ませた。平日の駐車場に並ぶのは仕事の車ばかり。旅のことを知り、楽しそうに笑っているのは、紛れ込んだ僕のジムニーシエラだけに見えた。
このサービスエリアでは、少し珍しくコーヒー豆の焙煎も行っている。数種類の豆から、その日の気分に合う一杯を選ぶのも楽しみのひとつ。大きなガラス窓の向こうでは、パンもおにぎりも人の手でせっせと作られている。大きなおにぎりをひとつ、朝と昼のためにパンをふたつ、そしてカップに並々と注いだコーヒーを手にし、湯河原に向かう準備は整った。
もう少し走ると海が見えてくる。夜を切り裂くように橙色の光が差し、それが水面にきらきらと反射するのを見ながら海沿いの道を行くと、湯河原はもうすぐそこだ。


湯河原駅で友人を拾い、幕山公園へ向かう。都内から東海道本線で1時間半ほど。そのほどよい近さも湯河原の魅力。
公園に向かう途中、旬のみかんを2袋2百円で手に入れる。ひとつは岩場でのおやつに、もうひとつはお土産用に。せっかく来たのだからと、岩場に着く前にあれこれ買ってしまうのも、この土地の楽しみだ。
8時ごろに幕山公園に着くと、すでに数台の車が停まっている。ここはクライミングだけでなく、ハイキングにも人気がある場所だ。駅から箱根登山バスに乗って、公園前まで来られるのも、人が集まる理由のひとつだろう。
毎年2月から始まる「梅まつり」の準備の音を聞きながら、登山道を登っていく。園内には約4千本もの梅があり、シーズンには多くの人で賑わう。そのおかげで、トイレも登山道もきれいに整備されていて歩きやすい。梅を守るため、園内は火気厳禁。そうした土地のルールもまた、岩場を保つための大切な約束だ。


岩壁の前に着き、ロープを広げて準備を始める。湯河原にはいくつかのリードクライミングエリアがあるが、その中の「茅ヶ崎ロックエリア」のルートを端から端まで登ろうと、理由もなく友人となんとなく始めた遊びが、この冬の楽しみになっている。
グレードに縛られず、目の前のルートをひとつずつどんどん登り、登れたものから赤で印をつけていく。その気ままさが心地いいのと、素朴な喜びを得られるのが楽しくて、この冬はよくここへ来ている。



岩質は安山岩。ざらつぎがあり滑りにくいが、粒立ちは指が痛くなるほどでもない。何より、伊豆半島の海から近い場所にあることもあり、冬でも暖かいのがうれしい。日向なら、長袖のTシャツ1枚と上着があれば、寒さに凍えることなく登ることができる。



今回は、海外に住む友人たちが一時帰国していたこともあり、冬の遊び場として湯河原を選んだ。
思い思いのルートでウォーミングアップを始める。登り終え、開放感と共に振り返ると、海の上に伊豆大島が見えた。湯河原の岩場は、それほど海に近い。
体が温まったら、同じルートでセッションしていく。体格が違えば、同じルートでも動き方は変わる。違いを見比べながら、自分なりの解決策を見つけていくのが面白い。ひとりが登り、もうひとりと違う動きで登っていくなか、僕は核心部で落ちてしまい、なかなか前に進めない。ボルダリングでは味わいにくい高度感や、ビレイパートナーとのやり取りを含めたロープクライミング特有の緊張感が、身体の感覚を別のものにしてしまう。友人たちに助言をもらい、お返しにみかんを渡しながら、僕なりの一手を探していった。


冬のせっかちな太陽は、何度も動きを確かめる僕を置いて、あっという間に傾いていく。明日への宿題を残したまま、登山道を下った。この冬に見つけたお気に入りの宿に荷物を下ろし、地魚の寿司を味わい、その名の通り湯でも有名な湯河原の温泉に浸かる。遊び疲れた身体が、ゆっくりとほどけていく。
宿に戻って少しだけお酒を飲み、布団に寝そべって、できなかった動きを頭の中で何度も復習する。やがて仲間のいびきが聞こえてきた。一定のリズムで規則正しく聞こえてくる寝息と、静かに心の中で膨らませたルートのイメージに包まれながら、眠れないかもしれないと思った次の瞬間、目を開けるとすでにうっすらと朝の気配が部屋に満ち始めていた。
海に上がる朝日を見ながらストレッチをし、昨日の宿題を回収しに行こうという気持ちを高めていく。すでに2袋とも食べてしまったみかんも、道中で忘れずに買おう。湯河原の朝は気持ちがいい。
