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【Papersky Archives】

竹細工

大分全域に分布する竹林は、日本全国の竹林の約6割を占める。そこから切りだした背の高いマダケが別府竹細工の材料である。何百年も前からこの竹を使って、細かく精密な手法で籠が編まれてきた。昔は農家の副業だったが、編みかたが複雑になりすぎて、専業の竹工芸職人が開発した編みかたには伝承できずに消えてしまったものもある。

08/23/2023

Story 02 | 火事や枯死を乗り越えて

「ここで働く人たちはみんな高齢者。全員が地元の出身です」。永井貴美代はそう語るが、これは彼女自身にも当てはまる。彼女は84歳で、昭和4年に別府に生まれた。別府で約100年前から営業を続ける製竹工場、「永井製竹」の四代目社長である。「いまの若い人たちは、こういう仕事をやりたがらないから」と彼女は言う。「若い子には大変すぎる仕事です。だから働いているのは、歳を取っても技術をもっている高齢者ばかりなんですよ」。永井は昔もいまも、別府の竹業界にとってなくてはならない存在だ。永井製竹では大分県内にある竹林から伐採したばかりの竹を、職人が細工に使える形に加工している。

竹には550以上の品種があるが、この地で使われているのはマダケ(学名Phyllostachys bambusoides)。「私がここで働きはじめたのは1954年のこと。当時、25歳でした。結婚してからは、夫とふたりで工場の一室に住みこみました」。彼女はいまでもここにいて、工場の入り口に置かれた机で仕事をしている。工場の床は、竹の粉だらけ。トタン屋根の倉庫には幹竹がぎっしり詰められている。壁に立てかけて、天日乾燥中のものもある。この工場は2種類の役割を果たす。ひとつは竹を細工に使える形に加工することだ(具体的には、竹の幹を煮沸して油分を取り除き、乾燥させて象牙色にする)。

別府の製竹業界の黄金期は1980年代のバブル経済崩壊とともに終焉したが、永井にはそのずっと前の第2次世界大戦後から、次から次へと苦難が襲いかかっていた。まず、1965年には工場が火事になり、すべてを失う。「その次は、竹林が全部枯れちゃったの」と彼女は回想する。竹の開花周期は60年から120年。花をつけたあと、竹林は枯れて死に絶える。「あの10年間は本当につらかったですねえ。苦難の10年でした」。その苦難の時期に、永井は備蓄しておいた竹を使って、スプーン、焼き鳥用の竹串、盃などの製品をつくらざるを得なかった。「1960年代には100人以上の従業員がいましたが、いまでは24人だけ。若い人はいません。ときどき若い子が入ってきますが、大変な仕事ですから、しばらくすると辞めてしまいます」。工場内を歩くと、高々と積みあがったマダケの山の間に、高齢の職人たちが黙々と幹竹を切ったり、削ったり、洗ったり、乾燥させたりしているのが見える。彼らにとって竹はいまでも、何千年にもわたって日本人の生死に深くかかわってきた文化的、宗教的に重要な素材である。

< PAPERSKY no.41(2013)より>

Photography & Text | Cameron Allan Mckean Coordination | Lucas B.B.