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大漁

すべての道は海に通ず。道の先には、太平洋が地平線まで広がっている。視界をさえぎるものは、港に停泊する漁船の群れと海の向こうからすべてを見下ろす富士山の姿だけ。ここは焼津、日本でもっとも有名な漁港のひとつである。

08/04/2020

Story 01 | 食べられる記念碑

焼津の商店街には、ほとんど人影がない。買い物をしている年配の女性が2〜3人いるくらいだ。長年、焼津で暮らす人々の話を聞けば、この商店街にアーケードがかかっていたころは、「いつも人でごった返していて、毎日がまるでお祭りのようだった」らしい。しかし、その面影はいまやどこにも残っていない。当時のにぎわいに貢献したのは、おびただしい数の酒場である。焼津のひとりあたりの飲み屋の数は、1960年代までは日本でもっとも多かった。数カ月、ときには何年にもわたる遠洋漁業から戻った漁師たちは、厳しい労働の対価として、家一軒、または溺れるほどの酒が買えるような大金を手に入れた。この時代は、漁に出ればかならず大漁。焼津の全盛期である。

当時の羽振りのよさをよく伝えているのが、焼津の和菓子文化だ。遠洋漁業に出ていた漁船が大漁で帰港すると、船元はその喜びを親族、友人、知人などにおすそわけする習慣があり、そのおすそわけに和菓子がよく使われた。なかでも焼津らしいと重宝されたのが、焼津の格式高い和菓子屋のひとつ、白喜久の「亀寶(きほう)最中」である。特産の鰹節をかたどった最中はいまも人々に愛されているが、50年前の焼津の繁栄を伝える記念碑としての人気のほうが高くなっている。「毎日ひとつは食べています」白喜久の3代目店主、大沢文彦は言う。繊細な最中の皮には、現代人の好みに合うあっさりした甘さのあんが包まれている。(大沢いわく「いまの人たちは、甘いばかりではない深い味わいを求めますから」)。亀寶最中は、大沢の父が焼津の新しい銘菓をつくりたいと試行錯誤した末に完成させたものだ。本物の鰹節をデフォルメし、あんがたっぷりと入るように工夫した。漁業全盛期に誕生したこの最中は焼津を象徴する和菓子として、発売するとたちまち銘菓となった。

大沢の前には父、その前には祖父がそれぞれ菓子をつくっていたが、東京の製菓学校で和菓子づくりを学んだのは大沢が初めてである。店に伝わる伝統の製法を守ることも重要だが、昔ながらの味を「新しい時代に合わせて変えていく」必要があると大沢は考える。大沢の和菓子づくりは高く評価されており、話を聞く私たちの目の前に、和菓子界のオリンピックに相当する全国菓子大博覧会から授与されたトロフィーが並んでいた。「いまはどんな味に挑戦していますか?」と尋ねると、大沢は真顔で答えた。「魚を使った和菓子を考案中です」と。

< PAPERSKY no.32(2010)より >

text & photography | Cameron Allan McKean Coordination | Lucas B.B.