日本の真ん中にある滋賀県、その真ん中にある琵琶湖
湖にも、寿命というものがあるらしい。数千年で消滅するのがいわゆる平均的な寿命のところ、なかには誕生から10万年以上も経つ“古代湖”といわれる長寿の湖も存在する。その数は世界中で20ほどしかないが、そのうちのひとつがここ日本にある。琵琶湖だ。
670平方キロメートルという面積、400本以上もの河川から流入する275億トンという水量、ともに日本一。400万年前にできてから現在に至るまで、この湖で育まれた生物は多様で、60種超の固有種を含む約2400種にも及ぶ生物が生息している。
このあたりに人間が住み着くようになったのは数万年前。湖底から縄文の遺跡も弥生の遺跡も見つかっているし、守山市赤野井湾遺跡からは、現在でも行われている琵琶湖独特の漁法である魞(えり)漁(後述)と同様の、古墳時代(3~7世紀)の遺構も見つかっている。人々は琵琶湖の恩恵にあずかりながら、連綿と暮らしを紡いできたのだ。
世界的な観光都市である京都のすぐ隣に、地球規模で貴重な自然環境があるというだけでも稀有ながら、日本海と太平洋、両方の気候の接点となっているのも、滋賀県を豊かな自然環境にしている所以だ。盆地であることも影響して、県内は東西南北で様相を異にしている。1周およそ200kmの琵琶湖の輪郭をドライブやサイクリングでなぞれば、砂浜、礫、岩礁、緑のヨシ帯と、刻々と変わる湖岸の様子を確認できる。
「世界農業遺産」に認定された共生の知恵「琵琶湖システム」
風光明媚な琵琶湖のこの風景も、かつて破壊されかけたことがあった。高度経済成長期の1977年、淡水赤潮が大発生し、水道水の悪化、養魚場での魚の斃死などの被害が出たのだ。しかし、合成洗剤に含まれるリンが一原因になっていると判明するや、県民主体で合成洗剤の代わりに粉石けんを使用する運動が起こった。呼応するように、琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)が施行。滋賀県が日本で環境先進県といわれるのには、こうした背景がある。
そして2022年、FAO(国連食糧農業機関)によって「世界農業遺産」に認定されたのが「琵琶湖システム」だ。森・里・湖に育まれる漁業と農業が織りなす、千年以上の長きにわたって継承されてきた農林水産業のことで、琵琶湖と人との共生のありようを指す。
具体的な内容としては、たとえば「魚のゆりかご水田」。琵琶湖の固有種であるニゴロブナは繁殖期を迎えると、水があたたかくプランクトンが豊富な湖辺の水田に遡上して産卵する。開発整備されたことで排水路に水位差が生じ、魚が上がれなくなってしまった水田には、人工的に魚道を設置。琵琶湖の生命の営みを保全する取り組みだ。
また、人々が千年以上続けてきた、必要に獲りすぎない独自の“待ち”の漁法である魞(えり)漁。そして、明治時代以降に取り組まれるようになった漁業関係者による植林活動「漁民の森」。これらも「琵琶湖システム」を構成する要素だ。自然と人との持続可能な環境に寄与し、それが最終的には自らの未来に還元してくるということをいち早く認識したのが、琵琶湖に暮らす人々なのだ。
滋賀の食のキーワードは水、そして発酵
平均寿命・健康寿命ともに全国上位。最新のデータ(厚生労働省「令和2年都道府県別生命表」)では男性の平均寿命が82.73歳で全国1位、女性は88.26歳で全国2位。健康長寿の理由には、その食生活も少なからず影響しているのではないだろうか。
今年リニューアルオープンした「舟倉」は、琵琶湖を眼前に臨む絶好のロケーションに建つ、漁師一家が営む旅館だ。至近の尾上漁港から早朝、漁に出る松田好樹さん、悠樹さん親子。春先はニゴロブナ、夏から秋にかけてはビワマス。他に、コアユやホンモロコ、ウナギなど、刺し網漁というやはり“待ち”の漁で獲れた魚は宿の料理となって供される。新鮮な刺身も、じっくり発酵させる鮒鮓も、漁師自らがさばき、調理し、サービスしてくれるのだ。
鮒鮓とは、塩漬けしたニゴロブナを炊いた白米で発酵させる郷土料理で、現存する最古の鮓といわれる。20年前には衰退しかけていたこの家庭料理を、いまや滋賀県の名物と即座に想起されるほどにしたひとりが「徳山鮓」の徳山浩明さんだ。
地元の海で漁をし、地元の山で猟をし、地元の畑を耕して食材を調達するところからの地産地消の一連を料理人自らが手がけるのも、寝食を網羅して客をもてなすオーベルジュのスタイルも。伝統料理を扱いながらも、「徳山鮓」のアプローチは最先端だ。いや、反対に、原点回帰なのかもしれないが。
「同じ水で育まれた食材で、ひとつのコースができる。酒や米はもちろんのこと、とにかく水が重要なのです」
同店の料理について尋ねると、徳山さんは水の重要さを強調した。
糀も味噌も、酒も。米の発酵で生み出される伝統食
近江国は滋賀の旧名で、近江米とは品種にかかわらず、滋賀県でつくられる米の総称を指す。良質な水の湧く場所に米どころあり。そして糀も酒も、いい水からできた、いい米が原料だ。
野洲市の米は1928年、昭和天皇の大嘗祭に献上する悠紀斎田(ゆきさいでん)に選ばれたこともあるほど誉れ高い。ここで約180年前から糀をつくり続けているのが「糀屋吉右衛門」だ。米も大豆も地元のものを使い、糀、甘酒、味噌のほか、塩糀、醤油糀、糀パウダーに糀種を使ったパンなど、添加物不使用の発酵加工食品を、ニーズに合わせて商品展開してきた。シーズンになると毎日のように開催される味噌づくり教室には、遠方からのリピーターも少なくないそうだ。
「藤居本家」は新嘗祭の御神酒を天皇陛下に献上、全国の神社に奉献している由緒あるつくり酒屋で、「うちの米は滋賀県産の酒造好適米しか使わんということでやっています」と7代目当主、藤居鐡也さんは胸を張る。
地下から汲み上げた仕込み水の試飲を勧めながら「鈴鹿山系に降った雨雪が地中に浸み込んで、およそ百年かけてここに届いた水です。そう思って飲んでいただくと、自然への思い、見えない土の下がどうなっているか、イメージしていただけるかと思います」、そう説明してくれる。
「水の恵みをいただいてこその、人間の暮らし。醸造業というのは伝統的なかたちでやるとすれば、風土と密接に結びついているべきと思っています。ですから我々も、できるだけ近江の気候風土を活かし、それをお酒に伝えたいと思っています」
水を介した自然と人、人と人のつながり
琵琶湖の北西に位置する、高島市新旭町針江。そこには、湧き水でつながる水と人の暮らしがある。集落の約百軒の家それぞれから水が湧いており、各家にはその水を利用した炊事場「川端(かばた)」があり、昔は洗顔や炊事などに利用していた。各家から出た水は集落共通の水路へ流れるため、上流の人は下流の人が使うことを思いやり、下流の人は上流の人が汚い水の使い方をしないという“安心の水”でつながっている。そうやってお互いを配慮することで、水という財産を共有しているのだ。
「各家から出た水は、水路を通じて針江大川に集結し、琵琶湖へ流れ込みます。それが淀川を下って、最終的には太平洋に流れ出る。だから私の使う水は、世界中につながっています。そしてまた、水は水蒸気になって雲になり、雨雪となって、やがてここへ還ってくるのです」
集落を案内してくれた地元民は続ける。「水をきれいに使うことは、結局は人のためではなく、自分のためだということです」
人間の体の60~70パーセントは水でできているといわれる。いうまでもなく生命維持に水は不可欠で、人と水は切っても切れない関係だ。蛇口をひねれば水道水が出てくる生活をしていると、それが万物共通の財産であることはなかなか実感しづらいかもしれない。けれど針江の人々は、水を使うという日々の行為で、人や自然とのつながりを感覚的にわかっているのだ。
琵琶湖を擁する滋賀県を訪れれば必然と、水の巡りとその恵みを目にすることになる。そこでの漁や発酵、ものづくり、生活といった人々の営みから見えてくるのは、水をとおして他者と共存して暮らす、生き物本来のあり方だ。かつて近江商人は「三方よし」を信条としたという。売り手、買い手、社会のどれにも利益をもたらすべしというその商売の理念は、時代や地域、ジャンルに関係なく、すべての人が手本にしていい考え方かもしれない。
舟倉
https://funasou.com
徳山鮓
https://tokuyamazushi.com
糀屋吉右衛門
https://kojiya-kichiuemon.jp
藤居本家
https://www.fujiihonke.jp
針江生水の郷
https://harie-syozu.jp/
滋賀県立琵琶湖博物館
https://www.biwahaku.jp