【Papersky Archives】

銭湯

立ちこめる湯気の向こうに、裸の人々が見える。ある人はシャワーで頭を洗い、ある人はうだるような熱い湯に浸かっている。ここは銭湯と呼ばれる公衆浴場。日本の文化遺産のひとつであり、人々が日常的に公衆浴場を使っていた、少し前の時代への入り口だ。

07/19/2020

Story 01 | 最後の三助

橘秀雪はしわの寄った手をすばやく動かし、杉原さんの背中を流す。77歳になる杉原さんは日暮里の斉藤湯の常連客で、この銭湯より2、3歳だけ若い年齢だ。この身体洗いの儀式はずっと昔からあり、日本では広く知られている。橘はこれまで何万人というお客さんの背中を流してきた。彼の手は背中、腕、頭のあちこちをすばやく行ったり来たりしながら、押したり、引っぱったり、ひねったりする。マッサージをするあいだ、橘の身体も揺れ動く。ずっと目は閉じたまま、まるで眠っているように仕事に没頭している。彼は「三助」と呼ばれる職業に就く最後の人物だ。三助の仕事は銭湯でお客の身体を洗ったり、マッサージをすること。橘が引退したら、三助という職業もこの世の中からなくなることになる。物事が怒涛のごとく変化する東京のような街に、近代化以前の社会を伝える橘のような人がまだ現役でいるのは驚くべきことだ。ほかの銭湯では、機械(たいていはマッサージチェア)が、三助の仕事を担うようになっている。

橘の日課はいまも、15歳で三助を始めたころとほとんど変わっていない(お客の数こそ昭和28(1953)年にくらべてずいぶん減ってしまったが)。当時の銭湯はたいへんな賑わいで、「若くてかわいい女の子」も大勢来ていたという。いま、銭湯のお客はありし日の郷愁を求めてやってくる、銭湯の古い浴槽やロッカーより年季が入ったお年寄りが多い。

橘は富山県氷見市の農家の四男として生まれた。農家の跡を継ぐのは長男と決まっていたので、彼は自分で働き口を見つけなければならず、15歳で中学を卒業すると、ひとつの決意を胸に東京にやってきた。その決意とは、銭湯で働くこと。当時、大盛況だった銭湯業界に働き口はいくらでもあり、橘もいくつもの浴場に番頭として勤め、銭湯の掃除やボイラーを使ったお湯の管理など、さまざまな仕事をこなした。そのころのことを尋ねると、橘はしばし沈黙する。「昔のことはずいぶん忘れちまったから。背中を流したら思いだせるんだけど…」。

僕たちは400円を支払い、「流し(背中流し)」と書かれた木の札だけを持って裸で入浴することにした。プラスチック製の椅子に座り、身体を洗い終わったころに、橘が白いランニングシャツと黒い半ズボンの三助姿で現れ、私たちの背中を流しはじめる。昔は三助を呼ぶベルがあり、お客さんが男なら1回、女なら2回鳴らすことになっていたという。ベルで呼ばれるまではボイラーの前で、ちょうどいいお湯加減になるように、古い家具などを次々に燃やしていたそうである。橘はまず、目の粗い洗い布で私たちの背中を痛いほどこすった。せっけんの泡が小さな山になって盛りあがる。それからゆっくりと時間をかけて泡を流す。すっかり流し終わると、これまで体験したことのないようなくつろぎの世界が広がった。流しの儀式から現実に戻った橘は、静かにうなずいて私たちの木の札を受け取ると、50年間ずっとそうしてきたようにボイラーの前へ戻っていった。

< PAPERSKY no.31(2010)より >

text & photography | Cameron Allan McKean Coordination | Lucas B.B.