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小さな世界を楽しく変える「うろうろアリ」

寺田拓真(前・広島県教育委員会
学びの変革推進課長)

子供のための学びをデザインし、変革する

「うろうろアリインキュベーター」唐川靖弘が自分ならではの働き方や生き方を通じて世の中に新しい価値をもたらす「うろうろアリ」を紹介します。

06/02/2021

Playful Ant 04 – 寺田拓真(前・広島県教育委員会 学びの変革推進課長)

2019年4月、瀬戸内海に浮かぶ島に、広島県による「新しい学校」が開校した。広島県立広島叡智学園 中学校・高等学校(HiROSHIMA GLOBAL ACADEMY)、通称HiGA(ハイガ)。中高一貫の全寮制、国際バカロレア(IB)プログラムの導入、高校から外国籍生徒が編入し英語ベースで授業を行うなど、およそ公立のイメージとはかけ離れた学校だ。中でも特徴的なのが「未来創造科」というユニークな科目。教室で教科書をもとに一方的に知識を教わる授業とは全く異なり、社会や環境について自ら課題を設定し、自分たちなりの解決策を創る、プロジェクト型学習(PBL)を採用したものだ。

僕は2018年から開校までの1年間にわたり、この「未来創造科」の立ち上げに携わる教員チームのため、コンサルティングやコーチングを行う機会をいただいた。きっかけとなったのは、この「新しい学校」づくりを進める「広島県教育委員会 学びの変革推進チーム」のリーダーだった異色の人材、寺田拓真さんから熱いコールを受けたからだった。

広島県職員となる前、寺田さんは文部科学省の官僚だった。中央のエリート街道を離れ、広島へと導いたものは何だったのか。理想の新しい学校づくりへの熱い思いはどこから来ていたのだろうか。 



王道から外れ、彷徨っていた学生時代


寺田さん:文科省出身というとよく誤解されるんですが、僕はそもそも全然エリートではないんです(笑) 小学校も中学校も、神奈川県の普通の公立に通いました。高校もそのまま地元の公立に進むものだと思っていたのですが、公立小学校の教員をしていた父親の強烈な勧めがあって、神奈川県では割と名の知れた私立高校を受験して思いがけず合格。晴れて入学することになりました。

ところが、そこは僕にとって全くの未知の世界でした。1学年に約1000人もいるようなマンモス校だったのですが、生徒がテストの成績によって10以上の階層に分けられ、定期的に入れ替えられる。地元の中学校では多少勉強ができると自負していた僕でしたが、入学直後のテストで割り当てられたのは最下層のクラスで、周りはスポーツ推薦で入ってきたアスリートばかり。しかも、文系・理系のダブルで最下層だったこともあり、生徒の間で妙な注目を浴びたのです。自分の住んでいる世界がいかに狭いかを痛感した原体験でした。

穏やかな口調で淡々とした語り口の寺田さん。文科省でのキャリアという「点」の情報しか知らなかった僕は「さぞかしエリートとして、失敗のないキャリアの王道を歩んできたのではないか」と勝手なイメージを抱いていたが、思いがけない雑草魂を共有してくれた。「最下層」からスタートしたその高校で、地道に努力を重ねていき、大学は早稲田大学法学部に進学した。「検察官になりたかった」からだという。弱き者を守るために法の知識を身につけるべく学問に打ち込んだのかと思いきや、「大学生活も、スタートでいきなりつまずいてしまった」そうだ。入学後ほどなく音楽活動や恋愛にのめり込み、学業はそっちのけ。家族や友人の忍耐強い説得のおかげで「社会復帰」したものの、大学は留年し、結果5年間通うことになった。

寺田さん:社会復帰してからは、検察官の現場を知るために裁判傍聴によく足を運んでいました。ある日傍聴した事件の裁判がとても印象的で・・・。簡単にいうと、中国人の女性が日本で夫に棄てられ、頼れる知り合いも仕事もお金もなく、八方塞がりになり、窃盗を行ってしまった。その女性が罪を犯したこと自体はもちろん悪なのですが、彼女が置かれていた境遇やそこに至るまでのプロセスという要素も考慮して量刑を判断する必要があるように僕には思えました。ところが、検察官は仕事柄、いかに彼女自身に非があるかという追及のみを冷静に執拗に行っていました。その様子を見て、何が正義かわからなくなってしまい、検察官になるという目標が萎んでいったんです。




教育を通じて、したたかでしなやかな子供を育てたい


せっかく社会復帰したのに、目標を見失ってしまった無為な学生生活。そんな寺田さんをみかねたのか、父親が、勤務していた地元の公立小学校でのボランティア実習に誘ってきた。1年ほどボランティアとして携わる中で、「公教育」にさまざまな問題があることに気づいたという。

寺田さん:日本だけで「年間400人の子供が自ら命を絶っている」という事実を知ったとき、「子供の自殺をゼロにしたい」と思いました。そのためには、学校や家庭など、子供が置かれている環境に対してインパクトを与え、公教育を「システムとして変える」必要があると思いました。それが文部科学省に入省した一番の理由です。子供が置かれる環境はもちろんそれぞれあり、なかには挫折を経験する子もいると思います。たとえ人生の中で挫折を経験したとしても、それに絶望をすることなく、もちろん単に楽観視するのでもなく、それを糧に成長していけるような「したたかでしなやかな子供」を育てる手伝いがしたいと思ったのです。

入省1年目は、まさに働き詰め。圧倒的な業務量に追われ、1週間の睡眠時間の合計が2桁に満たない(!)ことも多かった。目の前のことをとにかくこなすのに必死で、入省時に抱いていた理想に思いを馳せる余地など全くなかったという。転機が訪れたのは入省5年目に内閣官房に配属になったことだった。

寺田さん:内閣官房のチームでは、各省から若い人材が集い、国の改革の方向性について、様々な観点から検討を重ねていました。文科省の自分はそれまで「教育の問題が最も大事」と信じて疑っていませんでしたが、チームとして議論・意思決定を行うなかで、「自分の常識は必ずしも他人の常識ではない」ということに気づかされました。また、知らないうちに「文科省の立場で仕事をする」ということが自分の基準になりかけていたのですが、そうではなく、「子供たちの未来のために教育を変える」という本来の目的に立ち返ることができたと思います。

内閣官房での2年間の貴重な経験の後、文科省に戻った寺田さんは、「教育振興基本計画」など、まさに教育システムの根幹を司る業務に携わるようになる。

寺田さん:文科省という中央の機関で、大人たちが集まって教育のシステムについて考えれば考えるほど、「大人が求めている教育」と「子供が求めている教育」の間には、実は大きなギャップがあるのではないか?という思いが強く湧いていました。そんなとき、広島県教育委員会への出向の辞令が出たのです。僕はもともと「極度の人見知り」(笑) ですが、人見知りだからこそ「どのようなお誘いの話でも、断らずにまずは行ってみる」ことにしています。お誘いがあって初めて動く、という受動的なアクションとはいえ、動いてみると「自分では予想し得なかった何か」が必ず起きると信じているからです。だから広島行きが決まったこのときも、楽しみでした。

こうして2014年から広島県教育委員会で「学びの変革推進チーム」を率いることになった寺田さん。どのような想いで臨んでいたのだろうか?

寺田さん:大学の時に設定した「子供の自殺をゼロにしたい」というゴールは、究極のゴールとして持ち続けていましたし、今でももちろん持っています。とはいえ、「子供の自殺」に影響を与える要因は正直、教育だけではコントロールできないものもたくさんある。そのような結果に至るまでのプロセスを細分化し、一つ一つに着実に取り組む必要があると思いました。

公教育が子供に直接何かを届けることができる年齢は、6歳から長くて22歳くらいまでと限りがあると思いますが、子供たちの人生は22歳以降も続きます。その「公教育を終えた後」の人生で、何かの困難にぶつかり打ちのめされたとしても、しなやかに乗り越えてもらう必要があります。それを見据えたときに、「大学受験にいかに合格するかというような大人目線での教育」から「子供の個性・特長・意欲を尊重し、自己肯定感や成功体験を植え付け、自分の人生と社会に対する責任を育むような、子供を中心においた学びへの変革を行いたい」と強く思いました。つまり、子供自身が“楽しくもがける“ようになるための学びを実現しようとしました。

3年間の出向期間の期限はあっという間に訪れた。そのとき寺田さんの心に強く根づいていたのは「広島で“本物の教育”をカタチにしたい」という想いだった。現場に骨を埋める決意で文科省を去り、2017年に広島県の職員になった。文科省では、政策づくり等を通して「何を作るか」ばかりを考えていたというが、「学びの変革推進チーム」では、新しい教育を形にしていくために現状の「何を壊すか」を考えていた。そこからさらに、広島県に残り、より中に入り込んでいくことで、メンバーの将来的な自律のために「何を残すか」ということも考えるようになったという。

寺田さん:HiGAは広島県の公立中学・高校の「フラッグシップスクール」として位置付けられ、プロジェクト型学習(PBL)など新しい学びのシステムを採り入れてきました。これまでの公立中高での教え方に慣れた教育委員会の関係者から、不安の声や強い抵抗があったのも事実です。立ち上げに参画するHiGAの教員には熱意のあるメンバーが多く揃っていましたが、やはり中には新しい取り組みに躊躇するメンバーもいました。その様子を観察するうちに、やるべきなのは「壊さない学びの改革」ではないかと思うようになりました。

子供の人生を大事にしたいのであれば、まず子供に一番のインパクトをもたらす教員の人生を大事にするべきだ。先生たちのこれまでの学びや人生を否定することなく新しいチャレンジを積み重ねられるように、一人ひとりの先生の個性を尊重し潜在力を引き出す改革を促すことが重要だと思い至りました。それはまた難しいことなのですが。



弱さを認め、楽しくもがくことで、強くなっていく


2019年4月、無事にHiGAを立ち上げた寺田さんにある想いが浮かんだ。「これまでの経験で自分は教育行政のことは知っている。でも、教員の現場のことは知らない。それを知ることで、教員と同じ視点を持ちたい」

その思いに導かれ、2021年8月からアメリカ中西部にあるミシガン大学の教育大学院に進むことにした。プログラム名は「Design & Technologies for Learning Across Culture & Contexts (DATL)」。様々な領域からの「子供の学びのデザイン」を考えるプログラムだという。学生も、学校の教員をはじめ、博物館職員や教育アプリケーション開発エンジニア、医療教育関係者、貧困コミュニティでの教育サービスを行う人、など実に多様だ。

寺田さん:子供の個性や特長などの多様性を尊重するような学びを実現するためには、教員自身も多様性を持つ必要があります。教員の国籍を多様にしただけではダメで、専門知識はもちろん、教員の持ち込むカルチャーや背景なども多様にする必要があると思います。そういう意味で、今まで積み重ねてきた実績や立場のようなものを一旦壊して、自分自身にとっても新しい「多様性溢れる場」に飛び込んでいき、そんな知識や価値観を身につけたかったんです。学校の教員の中に入って同じ視点を持ちながらも、社会の様々な人たちの見方や考え方をつなげていく、そんな役割を担えるようになりたいですね。

寺田さん:もうひとつ。実は、僕は昔から英語が大の苦手なんです。「学びの変革」プロジェクトを進める際にも、多くの外国人ゲストを招いてきましたが、外国人と交流するのがとにかく億劫で仕方がなかった。ゲストがオフィスにやってくる5分位前になると、わざわざ席を外す理由を探すほどでした。チームの部下もそれはもちろん知っていて「あ、また課長が逃げたよー」と言われる具合でした(笑) そこには「人に弱みを見せたくない」という変なコンプレックスがあったのだと思います。

そんなある日の朝、鏡の前で身支度をしていたときに「今日も何もない穏やかな日になると良いな」とふと思っている自分に気づいたのです。「学びの変革」を掲げ、いつも子供たちや先生たちには「変わらなければならない」と口では言っているくせに、「今日も変わらない1日を過ごしたい」と願っている自分に、とても強いショックを受けました。これはまずい、と(笑) 自分を変えなければならないと決めたときに中途半端なことだったら、また逃げ出してしまうかも知れない。だったら、自分が逃げられない、一番大きな変化を体験せざるを得ない環境に身を置いてしまえということで、「一番苦手な、海外に飛び出してみよう」と決めたんです。

苦手な英語にも真正面から取り組んだ。大学院出願のために必要な英語のテストTOEFLは、数ヶ月で12回も受けたそうだ。それでも残念ながら西海岸にある第一志望の大学院からの合格は得られなかった。

寺田さん:メジャーリーグエンゼルスの大谷選手の大ファンでもある野球少年の息子からは、「カリフォルニアに連れて行って!」と言われていました。しかし中西部のミシガンになったことで、楽しみにしていた息子に申し訳ない気持ちもあるんです。一方で、「目標に向かって努力をしたからといって、手が届かないことや現実もある」ということや、「その現実をどのようにポジティブに捉えるかによって、その後が大きく変わってくること」を、自分のこれからの生き様を通じて子供に伝えられたらと思います。自分自身も楽しくもがいているんだ、という姿を見せる方が納得するでしょう。外の見知らぬ世界に出ていく。不安も大きいですが、何に出会えるかという期待も大きいです。子供たちにも早く広い世界を見せてやりたいと思っています。



インタビュー後の独り言

HiGAが開校する約1年半前、六本木ヒルズ内のカフェで、僕は寺田さんからHiGA未来創造科立ち上げのためのプロジェクト参画の相談を受けた。その日は朝から土砂降りの雨が降っていて、ミーティングに行く前はやや憂鬱な気分だったが、「こういう新しい学校を創りたいんです」ということを寺田さんが楽しそうに話す様子を聞いて、すっかり晴れ晴れとした気分で家に帰ったことを覚えている。

今回、寺田さんの人生と仕事にまつわる話を伺って、寺田さんが人生の大きな目的を絶えず意識しながらも、自分では必ずしも100%コントロールできない環境や立場の変化にもしなやかに適応し続けてきたことを知った。

うろうろアリは、大きな目的(パーパス)に向かって、小さな歩みを刻み続ける。途中、阻む壁や穴があっても立ち止まり諦めるのではなく、その進路を躊躇なく、柔軟に変え続ける。自然界の蟻の動きを見れば皆さんも気付くだろう。たとえ一時的には回り道に見えたとしても、諦めずうろうろし続けることで、実は一歩一歩、大きな目的へと近づいている。うろうろアリは、そのうろうろする過程の中で、最短距離を突き進むだけでは決して得られない新しい気づきやネットワークと出会うことで、自身の価値をさらに高めていくのだ。
Stay Playful. 



『The Playful Ants -「うろうろアリ」が世界を変える』

蟻の世界を覗いてみよう。まじめに隊列を組んで一心不乱に餌を運ぶ「働き蟻」の他に、一見遊んでいるように「うろうろ」している蟻がいることに気づくはずだ。この「うろうろ蟻」、本能の赴くまま、ただ楽しげに歩き回っているだけではない。思いがけない餌場にたどり着き、巣に新しい食い扶持をもたらす。自分たちに襲いかかる脅威をいち早く察知する。

人間社会も同様だ。変化のスピードや複雑性が増す現代。何かを人に命令されて一心に動く「働きアリ」ではなく、自分ならではの目的意識や意義に導かれながら、自分なりの生き方や働き方を模索する「うろうろアリ」こそが、新しい価値を社会にもたらすのではないか。

一人ひとりの人間はアリのようにちっぽけな存在だ。けれど、そのアリが志を持ち、楽しみながら歩いていけば、それは新しい価値を見出し創り出すことにつながっていく。世界を変えることにもつながるだろう。僕は、アメリカのコーネル大学経営大学院の職員として、また、東京に拠点をもつ小さなコンサルティング&コーチングファームの代表として、数多くのグローバル企業や日本企業と実践的なイノベーションプロジェクトをリードしてきた。その経験から、確かにそう感じている。

「うろうろアリ」は、当て所なくただ彷徨うアリではない。人生を心から楽しむ遊び心を持ったアリだ。だから、僕はこれを「Playful Ants」と訳した。この世界に、「働きアリ」ではなく、もっと「うろうろアリ」を増やしたい。この思いを胸に、この連載では、僕が魅力を感じる様々なタイプの「うろうろアリ」たちの働き方や生き方を紹介していきたい。

さあ、Let’s be the Playful Ants!


唐川靖弘 (うろうろアリ インキュベーター)
「うろうろアリを会社と社会で育成する」ことを目的に組織イノベーションのコンサルティング・コーチングを行うEdgeBridge社の代表として10か国以上で多国籍企業との実践プロジェクトをデザイン・リード。その他、企業の戦略顧問や大学院の客員講師を務める。