シャッターが降りている店の前を、通行人たちは素通りしていく。ところが夕方になってグラフィティに彩られた特徴的なシャッターが開くと、炭火で焼かれる魚のおいしそうな香りが通りに漂い、誰もがその存在に気付かずにはいられなくなる。ピニョンはそんな店だ。オーナーシェフの吉川倫平が11年ほど前に渋谷区の神山町に創業したピニョンは開店してから程なく、海辺の町のようなくつろいだ雰囲気の中で絶品の料理とワインを味わえるレストランとして賑わうようになる。


倫平は常に新たなインスピレーションを求めており、自然はアイディアを生み出す宝庫のひとつだ。彼は筋金入りのサーファーで、毎週必ず1、2回は千葉の海に通っているのだ。「サーフィンを通じて、自然と真摯に向き合う姿勢を学びました。波と食材に対して、常に謙虚な気持ちを忘れないように。料理をする時は自己中心的になることなく、食材の声に耳を傾けることを心掛けています。自然に抗おうとしても無駄ですし、そんな努力は空しいですから」
倫平にとってサーフィンは、地に足をつけた生活を送るための手段でもあり、友人やお客様に彼が伝えたい料理を提供するためのものでもあるのだ。

倫平がシェフを志したのは19歳のときだった。東京にあるフランス料理店で6年半働いたのちに渡仏し、シェフとしての腕に磨きをかけ、料理のレパートリーを広げていく。倫平はフランスに住んでいる間、あちこちを旅した。さまざまな土地を訪れる中、自分なりの料理哲学を打ち立てることができたという。
「料理をおいしくつくるには、自分の食の好みを知ることが非常に重要だと思います。食の好みとは、その人が過ごしてきた食生活と育った環境によって決まります。自分の好みを知れたら、今度はおいしいものとおいしくないものがわかるようになることが大切です。私は料理するときに、過去のさまざまな経験を混ぜ合わせています。食の経験だけでなく、旅やサーフィンや音楽など、あらゆる経験を融合させながら料理を生み出しているのです」と倫平は語る。



ピニョンの料理は、フランス料理のように感じられたり、モロッコ料理を思い起こさせたり、時には和食を彷彿させたりするだろう。だが、彼のレストランは特定の国の料理や文化には属していない、倫平個人と彼が積み重ねてきた経験に帰属している。つまり、倫平という人間を知れば、ピニョンのことがわかるのだ。
ピニョンの店内は調理に使われる炭火の熱で暑くなっていて、その中で過ごしているとだんだんと頬が紅潮してくる。その熱い頬のまま店を後にして、煩雑な日常に戻ったとしても、ピニョンで味わったくつろぎをいつまでも忘れないようにしたい。
