日本海から内陸へ、ボッカの汗がにじむ道
人間の暮らしに欠かせないものといえば、塩だ。日本で塩が使われるようになったのは、縄文時代から弥生時代にかけてといわれている。生活の基盤が狩猟採集から農耕に移り変わるなかで、塩分を含む動物の肉から穀物を主体とする食生活に変化すると、生きるのに必要な塩分を塩から摂らねばならなくなった。岩塩という資源がなく、海水からしか塩をつくれない日本では、沿岸で採取した塩を内陸に運ぶ必要があった。そんな塩の歴史に光を当てると、塩を運んだ産業道路が浮かび上がってくる。「塩の道」と名づけられたルートは各地に張り巡らされ、やがて海産物と山の幸を交易する暮らしの道として整備されていった。
そのなかでもよく知られているのが、「南塩」と呼ばれる静岡県相良町から信州の松本までと、「北塩」という新潟県の糸魚川から松本までを合わせた、太平洋と日本海を結ぶおよそ430kmの道のりだ。かつての信州は塩の大消費地であり、運ばれた量が膨大だったこと、そのルートにはいくつもの峠が現れ、とりわけ難路だったこと。冬季は深い雪に閉ざされたこと。そうした事情がこの道ならではの文化や物語を育み、このルートをとりわけ魅力的なものにしたようだ。
さて、今回、PAPERSKYが旅するのは、「北塩」の一部、糸魚川から大町までの約80kmの行程だ。塩と同時に勾玉に使われるヒスイも運ばれたという「北塩」は、『古事記』の神話にも登場するほど歴史が古く、古代から整備されていたこのルートを通り、糸魚川からは塩や海産物が、信州からはたばこや豆類、特産物がもたらされた。中世の時代にはこのルートは「千国道」と呼ばれ、近畿地方の文化もここを通って移入したという。江戸時代になると松本藩は塩から税を徴収するため、三州街道(伊那方面)や「南塩」を厳しく監視。塩の受け入れを「北塩」からに制限した。そんな事情もあり、最盛期には北塩ルートを通って1シーズンで2万俵以上もの塩が運ばれた。
ゲストに迎えた「Blue Bottle Coffee」のフォトグラファー、アンドリュー・カリーとともに「北塩」の起点であるヒスイ海岸へ。1日目はここから根知谷という集落に向かい、新潟県と長野県の県境である大網峠を越え、およそ20kmを歩く。日本のアートに興味をもったことから本格的に日本語を学んだというアンドリューは日本の文化にも関心が高く、この旅では古道にまつわるストーリーをカメラで切り取るという。
はじめは姫川に沿ってつけられている塩の道は根知谷に向かって姫川を離れ、やがて山間部に向かう。暴れ川として知られる姫川はしばしば水害を起こしたため、渓谷ではなくあえて山間部に道をつけたらしい。このように険しい山道が続く「北塩」では、特に糸魚川・大町間では荷を運んだ方法に特徴がある。ここで登場するのが背負子を背負ったボッカ(歩荷)と、馬よりも力の強い牛を操って荷物を運んだ牛方だ。ボッカひとりが運んだのが塩1俵、重量は47kgほど。牛はこれを2俵運ぶ。農閑期や積雪期には農家もボッカに精を出した。根知谷のボッカは強力として名を馳せ、黒部ダム建造の際には荷揚げ人として活躍したほどだ。明治に入って国道が、昭和に入ると姫川沿いに鉄道が敷かれたことからボッカは急速に廃れてしまったが、彼らの仕事ぶりは山口関所跡にある塩の道資料館でたどることができる。質素な道具類からは、ボッカと牛方が味わった並々ならぬ苦労が浮かび上がってくる。
根知で地元の郷土料理、笹寿司を手に入れたら峠越えの山道を出発。地元の有志が塩の道の整備を定期的に行っているので、雪解け直後の夏道でも雑草はきれいに刈られていた。静かな山歩きが楽しめるハイキングコースには、雨飾山麓を湖面に移す白池、豪雪により根曲りとなったブナの林が現れ、やがて大網峠へ至る。峠を越せば下り基調の山道が、長野県小谷村の大網まで続く。
1日目のゴールである大網は、人口70人ほどの小さな集落だ。かつては塩の道の宿場町として栄えたが、高度経済成長時代以降は人口減少が続き、近年はすっかり過疎化しつつあった。ところがここ数年、大網に「集落再生」のムーブメントが起きている。再生の担い手は、世界的な冒険教育機関であるアウトワード・バウンド協会長野校の活動をきっかけに大網にやってきた、30代の移住者たち。都会では味わえない、小さな集落ならではのあたたかで濃密な人間関係に魅了され、ここへの移住を決めた。畑や山仕事を中心とした自給的な暮らし、村を支える季節ごとの祭り……。厳しい自然のなかで培われた暮らしの知恵や生業を次の世代に残すため、「くらして」というグループを組んで行っている。
2日目は、大網を後にして小谷村から白馬へ。天神道と石坂を越え、約23kmののどかなハイキングを楽しむ。ルートの後半には、かつて松本藩が置いた千国番所(関所)や、茅葺き屋根の牛方宿、牛のために敷いた石畳、「千国越え」の石標など、当時の街道の面影を色濃くとどめた史跡が現れる。小谷では馬を供養した馬頭観音と牛を供養した大日如来をよく見かけた。牛を使った運搬は無雪期に限ったというが、突然の吹雪や険しい山道で命を落とした牛馬を祀った石仏に、当時の道の過酷さが現れている。
この日は「民宿発祥の地」といわれる、白馬八方の「あたらしや旅館」に宿泊。大工の棟梁であった初代当主が自ら山で伐り出してきたという梁で組んだ合掌づくりの建物で、母屋の前には民宿発祥と刻まれた記念碑が建っている。白馬岳登山が空前のブームになった昭和の初め、白馬山頂にある山小屋から頼まれ、悪天候により登頂を断念した登山者を泊めていたことが日本の民宿の始まりになったというが、近代登山やスキーの黎明期の物語に耳を傾けるのも一興だ。
3日目は白馬から青木湖・木崎湖を通って大町市へ。「白馬盆地」というだけあり、北アルプス山麓の道は平坦で歩きやすい。頂上に雪を抱いた白馬五竜や鹿島槍の絶景を見やりながらのハイキングも格別だ。木崎湖を過ぎれば、大町はもうすぐそこである。
宿場町として栄えた大町には、明治初期に建てられた古い町屋が数軒、残る。そのうちの1軒が、今回のゴールに定めた「塩の道ちょうじや」だ。塩問屋を営んでいた旧家の住宅で、敷地内には江戸時代に建造された土蔵もそのまま残っている。ボッカが背負ってきた塩は塩の集積地であるここで馬に載せ替えられ、松本まで運ばれたとか。
ボッカが歩いた道をたどる塩の道の旅も今回はこれまで。ここまで来たからには大町から松本までの残り40kmも必ず踏破しようと、アンドリューとルーカス編集長他、PAPERSKY一行は心に誓う。「北塩」完結編の旅の模様は、またいつか、別の機会に。