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Old Japanese Highway

『六十里越街道』

歩いて旅する、日本の古道
湯殿山を経て、自然美に触れる

庄内地方と山形県内陸部を結ぶ唯一の街道として開かれた、六十里越街道。国府と郡の役所を結ぶ官道として、湯殿山を目指す信仰の道として、そして庶民の生活道として大いに栄えたという、初夏の東北の古道を歩く。

09/22/2022

山菜と湯殿山信仰に彩られて

六十里越街道の話をするには、湯殿山のことから始めなくてはならない。羽黒山、月山と合わせ、出羽三山として知られている山である。いずれも容易に人を寄せ付けない秘所に位置するがゆえ、厳しい自然への畏怖と信仰が自ずと結びつき、日本ならではの山岳信仰が息づいた。古くから霊山として崇められてきた出羽三山のなかでも重要な聖地が、「語るなかれ」「聞くなかれ」として戒められてきた湯殿山である。江戸時代には湯殿山を中心に三山を訪ねる巡礼の旅が「お山詣り」として庶民の間に広まった。

羽黒山は現生のご利益を叶える「現在」の山、月山は祖先の魂が静まる「過去」の山、そして今もこんこんと湯が湧き出る湯殿山は生命の誕生を表す「未来」の山と見立てられており、現在・過去・未来を巡ることで「生きながらにして生まれかわれる」とされたからである。「お山詣り」が隆盛を極めた中期〜後期には、参詣者の数は十五万に上ったという。

で、六十里越街道だ。鶴岡から松根、十王峠、大網、田麦俣を経て大岫峠を越え、志津、本道寺、そして寒河江から山形城下に至る、およそ100kmの山岳道。開かれたのは1,200年前ともいわれるが、定かではない。庄内地方と内陸を結ぶ唯一の街道として、庄内からは塩や魚介類が、内陸からは紅花や真綿、豆などの生活物資がもたらされた。お山参りの盛んだった室町〜江戸時代には、街道は東北や関東各地から訪れる、白装束の行者たちで賑わったという。

雪の重みで根元がたわんだ樹木が現れるのは、豪雪地帯の山ならでは

PAPERSKY一行が鶴岡に降り立ったのは、6月も下旬のある日のこと。今回は六十里越街道の鶴岡側、松根から志津口留番所跡までの30kmを2泊3日でハイクする。旅のゲストに迎えたのは、鎌倉とニューヨークを拠点に活動する作家でライターのクレイグ・モド。日本の歴史や文化を学ぶなかで、数百年前の石碑や一里塚がそのままの形で残されている日本の古道に魅せられ、四国の遍路道や熊野古道、中山道や東海道を歩くようになったという。

北に庄内平野と日本海、南に月山、十王峠より眺望を楽しむ山伏の成瀬さんとクレイグ

スタートは街道の松根側の入り口にある八幡神社。1日目は田麦俣までの12kmを、羽黒の山伏である成瀬正憲さんにガイドしてもらう。羽黒修験「秋の峰」で長く修行を積まれている、成瀬さんは現在、鶴岡をベースに山伏文化の継承活動、地域文化のリサーチ、月山山系の山菜やキノコの採集・出荷などを行っている。白衣に頭襟、手には錫杖という山伏の装束に身を包んだ成瀬さんに法螺を吹いてもらい、修験の気分が高まったところで、出発。田んぼに囲まれた林道から、街道はいつしか緑深い山道へ至る。

六十里越街道のような里山歩きで、春先から初夏の楽しみといえば山菜探し、と成瀬さん。なるほど、指差す先に見つけたのは、赤ミズ(ウワバミソウ)、青ミズ(ヤマトキホコリ)、そしてアイコ(ミヤマイラクサ)。いずれも庄内の食文化を支える土地の恵みだ。

この時期のご馳走が山菜。今も昔も、参詣者のもてなしは山菜だった

庄内側の結界とされる十王峠を越えると、いよいよ街道は湯殿山の聖域へ。街道沿いには本日の行程のハイライト、湯殿山信仰を今に伝える湯殿山注連寺、湯殿山総本寺大日坊のふたつの寺院が立て続けに現れる。

湯殿山を開山したのは弘法大師(空海)であると伝えられている。唐にいたとき、夢枕に立った文殊菩薩から日本に3つの霊場があるとのお告げを受けた空海は、日本に戻りその霊場を探し歩いた。現在の鶴岡市で金色に輝く梵字を見つけた空海は、その梵字をたどり、ついに湯殿山を見出したと土地では伝えられている。

空海が開創した大日坊。室町時代以前に建てられた仁王門が美しい
樹齢1,800年ともいわれる大日坊の皇壇ノ杉。その生命力に息を呑む

空海とゆかりの深い湯殿山の真言宗系の寺には、高野山で入定した空海に倣い、即身仏という独特の信仰が生まれた。出羽三山における修行の「究極」と伝えられる即身仏は、人々を救うために我が身を犠牲にし、さらに厳しい修行を積み重ねて生きたまま仏になるというもの。庄内には湯殿山系の即身仏が6体、残されているが、そのうち3体が街道沿いにある注連寺、大日坊、そして不動山本明寺に安置されている。

即身仏を後にして山道を抜ければ、大網の棚田が眼前に。塞ノ神峠を越えると1日目のゴール、田麦俣集落に至る。湯殿山信仰が盛んな時代は宿場として栄えた地区で、兜造りというこの地方特有の造りの、茅葺屋根の民家が今も残っている。

茅葺の屋根が美しい、田麦俣の多層民家。兜造りはこの地方特有だ
鶴岡名物の笹巻き。ぷるぷるの質感が美味

2日目は田麦俣から湯殿山参籠所を経て神社本宮に参る、およそ10kmの道のり。今日の見どころは、低山に広がる天然のブナ林だ。ブナ林にはツキノワグマなどの大型の動物から鳥類、小さな土壌動物まで多くの野生動物が生息し、豊かな生態系が保たれている。「日本で信仰の道というと植林したスギの林が多いから、成熟したブナ林を歩けることが新鮮だった」とクレイグ。「鳥のさえずりや足元の草花に、天然の林ならではの多様性や生命力を感じるよね」

千手観音を思わせる千手ブナは、今も昔も旅人を見守る

街道のシンボル的存在である樹齢400年の千手ブナ、ブナ林にあって紅葉の名所として知られる花ノ木坂、ミズバショウが群生する湿地帯を抜け、豆腐道を経て湯殿山参籠所へ。その先はいよいよ湯殿山の総奥之院だ。

湿原を過ぎた焼山尾根には、まだまだ広大な雪渓が広がっていた

この湯殿山には社殿というものがない。祀っているのは、熱湯が湧き出る赤茶色の巨岩。参詣者は着物を脱いでお祓いを受け、ご神体に直に触れる。日本のアミニズム的信仰を体現するといわれるが、今も昔も人々は、湧き出る熱い湯に大自然とその生命力の根源を見出したのだろう。禰宜曰く、「江戸時代には関東や東北の各地にお山詣りの講があり、白装束に身を包んだ参拝者が六十里越街道を歩いて参詣し、生まれ変わりを願いました。当時、生活と信仰、文化は切り離すことのできないものでした。すべての道は物資をやり取りするだけでなく、神霊への思いや願い、祈りも運んだのです」

湯殿山の中腹に立つ大鳥居。すぐ横に湯殿山参籠所が控える

3日目は六十里越街道保存推進委員会の志田靖彦さんに案内してもらい、湯殿山から志津温泉までを歩く。400年前、口留番所ができたことをきっかけに開かれたという志津で老舗旅館を営む志田さんは、宿場町として賑わったかつての街並みを取り戻したいと、戦後に廃れてしまった六十里越街道に注目。有志とともに埋もれた道を切り拓き、整備を行う傍らガイドを務めている。志田さんによれば、このセクションの見どころは、街道で最も標高の高い大岫峠越え。雪渓が残るシングルトラックをひたすら登り、小さな沢をいくつも渡る。志田さんらが設えた木の道標のいくつかは、冬眠明けのクマにポッキリ折られていた。クマもシカもハイカーも、この古いトレイルを共有しているのである。

湯殿山から志津へのルートは、沢や迷いやすいシングルトラックが続く
雪解け水で増水した川を、時に渡渉することも

3日間・30kmのハイキング、ゴールで迎えてくれたのは志津口留番所跡に建つ常夜灯と苔むした石畳。街道からはるか湯殿山を仰ぎ見ればその自然美に圧倒される。山深い聖地への畏怖は、行者からハイカーへ、1,200年の時を超えて受け継がれていく。

道を掘り返したら現れたという、志津口留番所に残る江戸時代の石畳
これが日本の原風景。のどかな棚田の風景が広がる大網を行く
text | Ryoko Kuraishi photography | Yasuyuki Takagi special thanks | Mihoko Sakamoto