48歳、プロ歌人。3,000里の大冒険へ
「漂泊の歌人」こと西行を敬愛する松尾芭蕉が、その歌枕を追いかけて奥州(東北地方)への長旅に出発したのは、48歳のときだった。29歳で故郷の伊賀上野を出て江戸にやってきた芭蕉は、俳諧の添削や指導を行う宗匠、つまり職業俳人として江戸の俳壇ではそれなりの地位を確立したが、たった7年でその暮らしを捨て深川に隠棲してしまう。この時期、鹿嶋の禅僧と親交が深く、その教えの影響もあったのか、何物にも執着しない生き方に憧れたようだ。そうして河合曾良とともに『奥のほそ道』の旅に出たのが1689年のことだった。
PAPERSKY が行く現代の「奥のほそ道」紀行は、芭蕉と深川のゆかりが展示されている江東区芭蕉記念館から。芭蕉は深川から船に乗って千住に向かったが、現代の旅人は徒歩で千住へ。今回のゲストはニュージーランド出身の建築家、スチュアート。隅田川を北上して浅草から南千住へ。途中、素敵なコーヒースタンドを発見して道草したり、スチュアート好みの古い建物をリスティングしたり、歩き旅の醍醐味を堪能する。
最初の立ち寄りポイントは日光街道ひとつ目の宿場町、千住宿。早朝に深川を出発した芭蕉は千住大橋の北側付近に上陸し、「矢立初め」(旅立ちの記念の句)として、
行春や 鳥啼き 魚の目は泪
と詠んで人々に別れを告げた。旅慣れた芭蕉といえども初めての東北、しかも健康に不安を抱えての3,000里(約12,000km)の旅は不安だったに違いない。
旧日光街道は「江戸の台所」として栄えた「やっちゃば」を越え、第2の宿場町、草加宿に至る。『奥のほそ道』に登場する最初の宿場である。ここでは「草加宿案内人」の田口儀一さんにガイドしていただいた。
「日光街道が整備された当初、千住の次の宿場は越谷でしたが、千住・越谷間は4里強もあったことから、その中間にある沼地を整備して新しい宿場をつくることになりました。それが草加です。1630年に幕府公認となると最盛期に六十数軒の旅籠を擁する宿場として栄えました」
旧日光街道が綾瀬川にぶつかると、宿場町の風情は一転、風光明媚な松並木に変わる。“おくのほそ道の風景地”として国の名勝に指定されている草加松原だ。綾瀬川に沿って634本の松が植えられた「千本松原」の遊歩道は「往事の雰囲気を伝える風景」ということだが、草加の歴史書をあたった田口さんの見立てでは、この一帯に松が植えられるようになったのは江戸時代後期の1790年ごろというから、芭蕉が歩いた風景とはだいぶ異なっているはずだ。とはいえ、松並木のある遊歩道は旅人の目を長く楽しませてきたことだろう。
2日目のスタートは4番目の宿場町、春日部から。『奥のほそ道』ではまったく触れられていないが、同行した曾良の『曾良旅日記』によれば、1泊目は草加ではなく春日部(当時は粕壁)宿だったらしい。小雨が降るなかさらに北上し、栗橋関所跡を通過して利根川を渡り茨城県古河市へ入る。9番目の宿場町だが芭蕉はさっさと通過してしまったようだ。「古河は日光道中の宿場町ですが、どちらかというと城下町としての性格が強いのです」というのは、「古河市観光ボランタリーガイド」の添田和明さん。古河には平安末期から鎌倉初期に築かれた古河城があり、江戸時代には大いに栄えた。
「日光東照宮は幕府の聖地であり、日光詣では計19回も行われました。その日光詣での際、徳川将軍の宿城として利用されたのが古河城。古河は、城下町として、宿場町として、そして渡良瀬川を使った河川水運で大いに栄えていました。古河城主の土井利勝は幕府の初代大老を務めた実力者で、じつは家康の隠し子では、なんて噂されていたそうです」
それだけ栄えた町なのに芭蕉が通過してしまったのは、当時の古河には歌人をサポートするパトロンがいなかったということだろう。
「室の八島」に煙は立ったのか?
3日目。古河を出発し、ゴールの「室の八島へ」向かう。途中にある栃木県の小山は、“天下分け目の軍議”こと、「小山評定」で知られる。上杉景勝を討つために北上するなか、石田三成の挙兵を聞いた家康が配下の武将を召集して行った軍議のことだ。その小山を過ぎれば、「室の八島」こと大神神社はもうすぐそこ。徳川家光が寄進したという杉の林を抜けると、“煙”の歌枕の地として名高い大神神社の赤い鳥居が現れた。秘書役を務めた曾良は、歌枕に関心の深い芭蕉のためにここを立ち寄り先に選んだのだろう。実際、『曾良旅日記』によると、芭蕉はここでふたつの歌を詠んでいる。が、結局、『奥のほそ道』には収録されなかった。もしかしたら芭蕉が思い浮かべた“煙”」の情景は、ここにはなかったのかもしれない。
この後、芭蕉は日光へと歩を進めるのだが、今回の旅はこれまで。PAPERSKY一行がどんな歌を詠んだのか、それは秘密である。