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Old Japanese Highway

『富士みち』

歩いて旅する、日本の古道
大月から富士吉田、吉田口から5合目まで

PAPERSKYが訪れたのは、春の気配が漂い始めた富士山麓エリア。大月から「富士みち」を経て富士吉田へ、そして吉田口から5合目まで、2泊3日をかけてたどる信仰の道。江戸時代の庶民を熱狂させた「富士講」の秘密をひもときに、いざ富士山へ!

03/09/2023


庶民が熱狂、一世一代の巡礼の道


富士山信仰は古く、奈良時代にまでさかのぼる。そのころの富士山は「登る山」ではなく、はるか遠くから「拝む山」。時に激烈な噴火を引き起していた富士山には木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)という神様がおわすとされ、人間が容易に近づけないほど、畏れられる存在だった。各地に残る富士の遥拝所は、そんな富士山観の表れだ。それが平安時代末になると、仏教の影響からか多くの山伏、つまり修験者たちが富士山に登り、厳しい修行に励むようになる。さらに時代がくだって室町時代になると、行者は一般庶民を連れて富士山に登るようになっていた。当時の人々にとって富士山は「あの世」そのもの。富士山に登って「あの世」に行くことで人間は新しく生まれ変わることができると信じられていた。

厚い雲の隙間から、一瞬だけ姿を覗かせた富士の山。山裾から見る富士山は、ことのほか雄大だった

江戸時代になると、これがさらに発展する。信仰のベースとなったのは、戦国時代末期に登場した長谷川角行という行者の教えだ。17世紀後半には弟子の食行身禄が角行の教えをさらに深め、庶民にわかりやすく説いた。身禄の教えは多くの人の共感を呼び、関東一円に爆発的に広まった。こうして庶民による富士山信仰が大流行し、「富士講」というグループを組むようになる。これが江戸時代の大ブームの始まりである。

富士登山には莫大な資金が必要だったが、講の構成員がそれぞれ旅行資金を積み立て、講を代表する参拝者をくじで選ぶというシステムを考案したことで多くの人が富士山を目指せるようになった。最盛期には「江戸は広くて八百八町、八百八町に八百八講」といわれ、富士講の総勢は8万人にも及んだ。各講の道者(登拝者)は江戸・日本橋から「富士みち」を通って富士山を目指した。当時、参拝者に選ばれた者はとっておきの酒や食料を仕込んで出かけたというから、娯楽の少なかったあの時代、吉田までの3〜4日の富士みちを行楽気分で満喫したようだ。

大月追分から吉田までの「富士みち」は平坦な舗装道が続く

今回、PAPERSKYと一緒に富士みちを訪ねてくれるのは、カルチャー雑誌『アラ・チャンプ』を主宰するジョアンナ・カウェッキ。東京を拠点に活動するようになって4年、シティガールを標榜するジョアンナも、富士山でのご来光は体験済みだ。そのときは単なるアクティビティとしての登山だったそうだが、江戸の庶民を席巻したこの旅のテーマに興味をもち、参加してくれることになった。

さて、旅の始まりは大月駅。本来は日本橋を起点に甲州街道を行き、大月で分岐して富士吉田に至るのだが、大月までの行程は割愛する。大月駅を出発して大月追分から富士山道(富士みち)を南下する。大月追分ではさっそく、富士信仰にまつわる石造物を発見。この追分もかつては富士山への交通の要衝だったのだろう。道中、追分や出合といったポイントにいくつもの石碑や道標を発見した。

カフェ、ショップ、ギャラリーを併設する「Far Leaves Tea」に寄り道

富士みちの宿場となっていた谷村を通り過ぎると、やがて下吉田に至る。吉田には「御師町」という富士山信仰の一大拠点が築かれたのだが、吉田のなかでも上吉田がそれにあたり、下吉田は商人の町として賑わっていた。下吉田をさらに南西に下るといよいよ上吉田に至る。

江戸時代の上吉田には富士講に欠かせない御師住宅が数十軒も連なっていた。「御師」とは、浅間神社の神主にして宿坊の主人で、道者の食事や宿泊、弁当など登拝にまつわる一切を手配した旅のコーディネーターのこと。富士山の各登山口に御師町が築かれたが、江戸時代には吉田が最も多くの登拝者を集めた。最盛期には道者が部屋に入りきらずに廊下で寝る者もいたそうだ。現代の富士山8合目の営業小屋とさして変わらずといったところか。

御師の宿「筒屋」で、離れの蔵に設えた神前の間にお参りする

1日目の夜は、現在も宿坊として営業を続けている御師住宅の「筒屋」にお世話になる。御師の家は表通りから奥まったところにあるのが特徴で、玄関前には道者が禊をするための小川が流れている。どの御師の家にも必ず浅間神社の神様を祀る「神前の間」があるのだが、「筒屋」の神前は離れの蔵に設えてあるのがめずらしい。道者は出発前、ここで御師に旅の安全を祈願してもらうのだとか。

お楽しみの夕食は名物の御師料理をいただく。御師料理とは、翌日に富士山登拝を控えた行者に提供する料理のこと。登山を控えているから量も多めのスタミナ系。「ただし、『不浄を運ぶ』という考えから四つ足の動物は使わないんですよ」とおかみさん。代わりに吉田では自宅の池の鯉を料理して提供することが多かったようだ。

一般家庭が富士道者相手にうどんをふるまい始めたことが、吉田のうどん屋の始まり
昔の宿場町、谷村を過ぎて左手に現れる田原の滝

翌日は吉田で富士講スポットを巡る。最初に出かけたのは、「ふじさんミュージアム」。プロジェクションマッピングや最新の映像技術を駆使して富士山信仰にまつわる展示を行っている。解説パネルや映像には英語の表示もあり、ジョアンナも日本人の富士山観を少し理解できたよう。

「日本三大奇祭」と言われる吉田の火祭りでは、富士山を模した「お山神輿」を担ぐ
江戸時代の富士山信仰の世界観を今に伝える御師の家、「旧外川家住宅
歴史ある御師住宅をゲストハウス「hitsuki」に改め、その文化を受け継ぐ大雁丸さん家族
登山道1合目に建つ鈴原社。かつては大日如来が祀られていた

続いて、「ヨシダトレイルクラブ」のガイド、太田安彦さんと佐藤厚明さんに、国の天然記念物に指定されている「吉田胎内樹型」を案内してもらう。1,100年前に溶岩がつくり出した洞窟で、いくつもの樹木が重なり合ってできた複雑な樹型は女性の胎内にたとえられ、胎内信仰につながった。洞窟のなかには富士山の御神体である木花開耶姫命と食行身禄が祀られている。

「古くから道者たちは登拝の前日にここを訪れ、洞内を祈りながら巡る『胎内巡り』を行ったんです」と太田さん。さらに、道者にとってのもうひとつの聖地、泉端水源地に向かう。現在は枯れているがかつては登山口至近の禊場としてにぎわった。富士山周辺にはこんな水の霊場が点在している。

年に一度の胎内祭以外はクローズされている「吉田胎内樹型」洞内を特別に見学
国指定重要文化財でもある北口本宮冨士浅間神社の本殿

3日目はいよいよ、富士山を5合目まで。北口本宮冨士浅間神社にお参りし、吉田口登山道から5合目を目指す。数ある登山道のなかで唯一、かつての姿を留めながら1合目から山頂まで登ることのできる登山道だ。登山道沿いにはいくつもの禊場や神社、茶屋の跡が現れて、かつての富士講の隆盛を今に伝えている。まだ根雪の残るカラマツやコメツガの原生林に朽ちかけた拝殿や茶屋が点在するトレイルは、5合目から先の登山道とは別世界のよう、とジョアンナもエキサイト。スパイクをつけた登山靴で世界遺産の古道を楽しんだ。

俗世と聖地の境界とされた「馬返」から、根雪の残る登山道を歩く

「神様を感じながら、麓から山頂までの道のりを自分の足で踏みしめる。今も昔も、日本一の山の大きさを体感しながら登ることに意味があるんでしょうね」

ジョアンナならずとも麓から山頂までをあらためて歩いてみたいと思わせた、2泊3日の古道歩き。江戸時代の道者にならって天空の聖地を往く、そんな旅も悪くない。

はるかな時の流れを感じさせる富士の登山道。順を追って聖地を巡れば、その本当の姿が見えてくる
text | Ryoko Kuraishi photography | Yasuyuki Takagi special thanks | Takuya Ito