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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene1 大天井岳より

明治から昭和にかけて、あくなき情熱をもって世界中の自然を描き続けた画家がいた。洋画家として、またのちに木版画家として活躍する吉田博である。そんな彼が生涯を通して描いたのが山岳風景だった。ここでは、北アルプスを題材に制作された全12点の木版画「日本アルプス十二題」の中から毎回ひとつの作品を取り上げ、彼の足跡を辿って北アルプスを歩きたい。80年以上の時を経た今、彼の作品は何を教えてくれるのだろうか。

05/19/2021

「仙骨」になりきろうとした風景画家

「北アルプス三大急登」のひとつ合戦尾根を登りきると、冷たい風が吹き付けてきた。鉛色の雲の下で槍ヶ岳の岩峰は青灰色のシルエットとなり、わずかな雲の切れ間から光が帯となって谷底を照らしている。吉田博がこの場所に立ったのは、今から80年以上前のことである。

近代風景画の巨匠にして、伝統的な浮世絵の技術を駆使し、「木版画による洋画の創造」を試みたと言われる吉田博は、明治9年に福岡県久留米市に生まれた。幼少の頃から紙と鉛筆を持って山川を跋渉しては写生をしたという博は、中学でその非凡な画才を見込まれ、2年後には京都へ、さらにその翌年には上京し、画塾で本格的に洋画を学ぶ。そんな中、彼は日本人の水彩画が外国人に受けることを知る。

世界中の自然を旅した吉田博。
illustration | Yohei Naruse
ヨセミテ国立公園を描いた木版画「エル キャピタン」(福岡市美術館 蔵)は、1925(大正14)年の作品。

当時始められた官費留学に対する反骨精神と画業への情熱に燃える23歳の青年画家は、二度と日本に戻れなくなることを覚悟で、画塾の親友中川八郎と自力での渡米を企てる。とにかくこの身体を日本の外へ出してしまえ。二人はこれ以上持ちきれないほどの描き溜めた水彩画を携え、サンフランシスコまでの片道切符と渡米後なんとかひと月暮せるだけの費用を握り締めて、「亜米利加丸」に乗り込んだ。船の火災騒ぎに遭いながらも何とかアメリカに上陸した彼らは、ひょんなことからデトロイト美術館で展覧会を開催、大成功を収めることとなる。ボストンでの展覧会でも大成功を収めた二人は、売上金を旅行資金にヨーロッパへと旅を続けた。

元来漂遊癖の強かった博は、日本各地はもちろん、73年の生涯を閉じるまでに4回にわたる海外周遊を行った。長い旅では3年以上にわたり、その足跡は欧米のみならず、アフリカ、インド、東南アジアにまでおよんでいる。描きたい自然を求めてなりふりかまわず、ただひたすらに山野を駆けめぐった風景画家、吉田博。そんな彼が好んで描いたのが山岳風景だった。

燕山荘は朝日に淡く染まった。とても雰囲気の良い山小屋だ。
illustration | Yohei Naruse
花崗岩の奇岩が露出した燕岳は北アルプスの中でも人気が高い。
illustration | Yohei Naruse

夜半に吹き荒れた風が雲を吹き飛ばしてくれたのだろう。今日は快晴だ。見事な雲海が眼下に広がり、見渡す限りの山々は朝日に染まるのを待つように静かに息を潜めている。やがて東の雲から朱色の太陽が昇ると「日本アルプスの中でもとりわけ画家の喜ぶ形状を備えている」と博が表現した燕岳の白い花崗岩はオレンジ色に淡く染まった。パッキングをすませ、槍ヶ岳を正面に仰ぎ見ながら大天井岳へと続く縦走路を歩く。谷から吹き上げる風が熱気を持ち去ってくれて心地良い。

博が描いたのはこのあたりからの眺めだろうか。コピーを片手に有明山を見下ろす。日本アルプスは全部登ったと話すほどくまなく歩き、山岳風景画を数多く残した吉田博。

吉田博「大天井岳より」1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

その中に大正15年に発表された「日本アルプス十二題」という、北アルプスの十二の風景を描いた木版画の作品群がある。そのひとつ「大天井岳より」が、ここ大天井岳から眺めた有明山と安曇野の風景である。山の位置と尾根の延び具合、高瀬川の形…。すべてが一致する風景には出会えなかったが、彼が眺めた場所は大天井岳頂上直下の急登から谷を少し下ったあたりだろうということはわかった。

現在は登山道以外の場所を歩くことは禁止されているが、当時はそのような制限もなかったため、彼は構図を求めて自由に歩き回ることができたのだろう。そして一見「地味」なこの風景を博が描いたのは、彼が北アルプスを歩くごとに案内を頼んだ「気立ての善良な、極めて愛すべき男」であり、「日本アルプス十二題」を発表する3年前に息子もろとも雪崩で圧死した小林喜作を偲ぶためだったのだと思う。博が有明山の背景に淡い色彩で描いた安曇野の地が喜作の生まれ故郷であり、中房温泉から燕岳、大天井岳を経て槍ヶ岳へと続く登山道をつくったのが他ならぬ喜作だったからである。

初夏の日差しを浴びながら、どっしりとした大天井岳を目指す。
illustration | Yohei Naruse

少年時代から阿蘇や霧島など郷里九州の山々を歩き回ったという吉田博。夏には好んで野宿をし、草原の露を褥としたことも少なくない。雨の降る夜を山中で立ち明かし、一日くらいの絶食は平気で、仙食と称して木の実や草の芽を食べたこともあったという。ただ単に自然を描けば良いのではない。巨木が生い茂る光も届かない幽谷、一種の霊気を帯びた深山や高山に分け入り、自然の中に自らを没し、「仙骨」になりきる。そうしなければ真の自然は描けないと考えた博は、31歳の若さで次のように語っている。

「私は自然を崇拝する側に立ちたい…自然ほど変化に富んだものはないし、自然の力ほど大きいものはない。人間が何と言おうと、騒ごうと、動かす事も、届く事も出来ない。かかる場合に、画家は自然と人間との間に立って、見能わざる人のために、自然の美を表して見せるのが天職である」と。これこそが彼の風景画の原点であり、自然への一貫した姿勢であった。

氷河期の生き残りと言われるライチョウ。赤い肉冠があるのがオス。
illustration | Yohei Naruse

私はこれから「日本アルプス十二題」に描かれた場所を辿る旅に出掛けたいと思う。吉田博がどのように山に分け入り、山と接し、そして山を表現したのか、自分の身体で確かめたい。

しわがれた声で鳴きながら、つがいのライチョウが風に乗って飛んで行く。やがて六月の温かな雨が残雪を融かし、コマクサの咲く頃にはかわいらしいヒナを連れて歩く姿が見られるだろう。梅雨の中休みの空の下に、常念岳へとなだらかな道が続いていた。

<PAPERSKY no.26(2008)より>

route information

中房温泉から燕山荘までは急な登りが続くが、道はよく整備されていて歩きやすい。燕山荘は畦地梅太郎や熊谷榧の作品が飾られたアートな山小屋。スタッフの笑顔とおいしいコーヒー、生ビールが迎えてくれる。はじめて北アルプスを歩くなら中房温泉~燕岳往復がおすすめ。
燕岳から大天井岳への縦走路は表銀座縦走コースと呼ばれ、槍ヶ岳を眺めながら歩く人気ルート。ちなみに大天井岳から槍ヶ岳へ向かう道は 「喜作新道」と言い、吉田博が命名した。大天井岳頂上直下の岩には小林喜作のレリーフがある。大天井岳から先は槍・穂高連峰を眺めながらの雲上散歩だ。常念岳を越えて上高地へ下るルートは長丁場になるので、余裕がない場合は常念小屋から 「ヒエ平」「三俣」(バスがないので常念小屋でタクシーを予約すること)へ下ると良い。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。