Connect
with Us
Thank you!

PAPERSKYの最新のストーリーやプロダクト、イベントの情報をダイジェストでお届けします。
ニュースレターの登録はこちらから!

Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene10 雷鳥とこま草

「日本アルプス十二題」とは、明治から昭和にかけて活躍した山岳画家の第一人者・吉田博が、北アルプスを題材に制作した木版画シリーズ。ここでは毎号、吉田の足跡をたどって、日本アルプスの各地を訪ねます。今回の舞台は『雷鳥とこま草』。

11/17/2023

鮮やかなピンクの薄色の花/雷鳥とこま草

遠く、朝日に照らされた剱岳の岩峰が淡い朝の空に輪郭を際立たせ、その奥にはまだ残雪を多く抱いた立山連峰が見える。7月も終わりだというのに、さすがに北アルプス北部の山々には雪が多い。

白馬岳の稜線に広がる白いザレ場には淡く儚いピンクの花が点々と咲いている。長く伸びたつぼみの形が馬の顔に似ていることから「駒草」という名前がつけられた。清楚で可憐なコマクサは「高山植物の女王」とも言われ、高山植物を代表する花として多くの人々に親しまれている。

コマクサの可憐さは今も昔も変わらない
illustration | Yohei Naruse

吉田博は風景画家だった。人物や動植物は主題としてではなく、風景を構成する一要素として描かれることが多かった。それは彼が18歳で上京して門を叩いた画塾、不同舎の小山正太郎が「風景をただそのまま描いたのでは面白くない。必ず点景人物など何か人生や生活を感じさせるものをそこに描き加えるべし」と指導したことが強い影響を与えているのだと思う。

夏の爽やかな青空の下、強い日射しを遮るように真っ白い雲が流れていく。大きく、なだらかな稜線に続く縦走路。乾いた風が涼しく山肌を吹き抜ける。旅路はいたって快調だ。それにしても、山道の両脇を彩る花の多さには驚かされる。チングルマ、イワギキョウ、ミヤマアズマギク、タカネヤハズハハコ、そしてコマクサ…。多種多様な花々が、まるで夏を待ちわびていたかのように一心不乱に咲き乱れている。まさに雲上の花園、すれ違う登山者もまた高山植物を愛で、感嘆の声を上げている。

いつの時代にも多くの人々の心を惹きつけてやまない日本アルプスの高山植物。山岳美をこよなく愛した吉田博だが、意外にも高山植物についてはあまり興味がなかったようだ。

「高山植物の咲いてゐるお花畑は、日本アルプス到る所にある。だが事實はその言葉の響きの美しい程美事なものではない。高山植物の方のことは私はよく知らないが、それでも黒百合やこまぐさの花は、私の眼にもよくついた。…(中略)…お花畑といへば、下界で見馴れぬ奇妙な色の花でも咲き亂れてゐて、その上に、これも下界では見馴れぬ種類の違った珍奇な蝶でも飛んでゐさうに想像されるかも知れないが、お花畑といふものがそれ程美しいものでないことは今述べた通り、蝶なども變つた種類のものもゐるらしいが、それすら餘り高い所では殆んど見かけない。鳥類では、雷鳥を先づ第一に、鷹や燕やたけがらすなどを時折眼にすることがある」

博の画友であった高村眞夫は、やはり博の親友であった山岳風景画家の丸山晩霞について「丸山君は高山植物を熱愛されるので、同君の作品は日本画と謂わず、水彩と謂わず、悉く高山植物を配したるアルプスの山容が画題となって居る」と言いながら「吉田君は同じ山岳画家でも植物や、花をねらって居りません。主として山頂に於ける雲煙の変化や山容の自然の姿を探求して居られる」と記述している。

夏山の風を受けて白馬岳を仰ぎ見る登山者
illustration | Yohei Naruse

お花畑はそれほど美しいものではないと、いささか拍子抜けするような記述さえ残している博だが、「私の眼にもよくついた」と語るコマクサには特別な思いがあったようだ。彼は燕岳で見つけた大きなコマクサについて次のように回想している。

「その斜面で、今いつた私の見たうちで最も大きいこまぐさの花を見出したのである。鮮やかなピンクの薄色の花が簇生して、白い砂地に浮き出すやうに咲いてゐたのである。高山植物などは珍らしいだけのもので、大して美しいものではないと考へてゐた私も、その時ばかりはその花の見事さに一方ならず心を惹かれたのであつた。で、今も私は、美しさに於いてこまぐさの花こそ高山植物の代表である、と確信してゐるのである」

「日本アルプス十二題」のうち6点の作品にはコマクサをモチーフにした朱印が押されている。そのことからもコマクサの美しさに強く惹かれたことがうかがえ、高山特有のライチョウとともに、日本アルプスを代表する風景のひとつとしてこの連作版画に描いたのだろう。

吉田博「雷鳥とこま草」1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

東からガスが沸き、あたりが少しずつ灰色に包まれると視界が利かなくなった。今日も雷雨があるという。昔から雷を呼ぶ鳥だと伝えられてきた雷鳥は、雨が降る前に姿を現すことが多い。小蓮華岳から白馬大池へと下るゆるやかなハイマツ帯のガレ場は「雷鳥坂」と呼ばれ、ライチョウが多いことで知られている。梅雨が明けたこの時期、ライチョウの母親は好奇心旺盛なヒナを連れているはずだが、注意深く辺りを見渡しても、どこからともなくそのしわがれた声が響いてくるだけで姿は見えなかった。

薄くなったガスの向こうに大きな水面が見下ろせた。標高2,400m近い山上に佇む白馬大池である。明るい緑の斜面に囲まれた静かな水面は灰色の空を映し、周りを白い雪渓が彩っている。池の畔には白馬大池山荘の赤い屋根と黄色や緑色のテントが小さく見える。

山荘には昼過ぎに到着した。水面に近い静かな場所にテントを張る。雪解け水が染み込む草原には白いチングルマの群落がどこまでも続き、水面を渡る風を受けて小さく揺れている。風が漣をつくり、斜光が光の粒となってきらきらと輝く。なんて穏やかな景色なのだろう。

テント場からは雄大な白馬大池が見渡せる
illustration | Yohei Naruse

「白馬の大池は火山湖である。凄いくらゐ静かで、魚類さへ棲んではゐなささうに見える。時としてあの水面の上一面に黒雲の舞ひおりてくるやうなことがある。そんな時には水中から龍でも昇天しはしないかといふやうな気持ちさへしてくる」

吉田博はそう記している。現在は山小屋があり、多くの人々で賑わう白馬大池だが、山小屋が建設される前の、人っ子一人いない原始のままのこの池は、今よりもずっと神話的な佇まいをしていたに違いない。

夕方になると少しずつガスが晴れ、池の上空に広がる雲が黄色く染まり始めた。次の瞬間、雲の切れ間からわずかに西日が射し込んだ。対岸の斜面をオレンジ色に染めた光は徐々に輝きを増し、湖畔に咲き乱れる草花を明るく照らし出したが、すでに日は西に傾き過ぎ、それ以上風景を鮮やかに染めることはなかった。水辺を吹き渡る風が、少しだけ強くなった気がした。

<PAPERSKY no.35(2011)より>


route information

標高2,932mの白馬岳は北アルプスを代表する名峰で、コマクサが群生する山として知られている。コマクサの見頃は7〜8月。頂上から北へ延びる稜線はなだらかで危険箇所は特になく、ゆっくりと雄大な縦走をたのしむことができる。白馬山荘から栂池山荘までは通常1日で歩けるが、白馬大池の景色が素晴らしいので白馬大池山荘で宿泊すると充実した山旅になるだろう。乗鞍岳からの下りには遅くまで雪田が残るのでスリップしないように注意したい。ロープウェイとゴンドラを乗り継いで山麓の栂池高原駅へ。周辺には温泉もあり、旅の疲れを癒してくれる。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。