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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene8 穂高山

「日本アルプス十二題」とは、明治から昭和にかけて活躍した山岳画家の第一人者・吉田博が、北アルプスを題材に制作した木版画シリーズ。ここでは毎号、吉田の足跡をたどって、日本アルプスの各地を訪ねます。今回の舞台は『穂高山』。

10/27/2022

最愛の山/穂高山

朝日が冷えた空気を温めると、上高地の深い谷に立ち込めていた朝靄が次第に晴れ、穂高岳の岩峰が淡く静かに浮かび上がった。秋晴れの澄みきった空から降り注ぐ光は、遥か上方に霞む荒々しい岩肌を白く輝かせ、その上を鱗雲がゆっくりと流れていく。

日本屈指の氷河地形、切り立つ岩稜、屏風のようにそそり立つ岩壁。穂高連峰には北アルプスの中でもひときわ厳しく、荒々しく、雄々しい、高山特有の山岳風景が広がっている。その風景は今も昔も変わることなく、多くの登山者の憧れを掻き立ててやまない。

吉田博がもっとも愛した山、それが穂高岳だった。彼は剱岳や槍ヶ岳も好んで描いたが、穂高岳を数多くの作品に残した。1915(大正4)年から3年間に「穂高山」を描いた4点の油彩画を立て続けに発表、1921(大正10)年には山岳風景を題材とした最初の木版画に穂高岳を描いている。この時期は博がもっとも精力的に北アルプスに足を運ぶようになった時期であり、穂高岳がモチーフのひとつになっていたとも言えるだろう。上高地を描いた作品もいくつか残されているが、そこに描かれた山もまた穂高岳である。1927(昭和2)年に制作された木版画の大作「雨後の穂高山」はその集大成とも言うべき作品で、雨後に谷間から湧き立つ霧と、その湿潤な空気の中に浮かぶ穂高岳を、息を呑むような繊細かつ透明感溢れる表現で見事に描いてみせた。博はこの作品に「上高地の梓川畔に立って眺めたものでその景甚だ雄大である」という言葉を添えている。

吉田博「穂高山」 1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

針葉樹の深い緑、色づきはじめて間もない明るい緑、黄土色、黄色、そして朱色。山道は、乾いて色褪せたような、やわらかな色彩に埋め尽くされた横尾谷の奥へと続いていった。ダケカンバの小さな黄色い葉が、風が吹くたびに漣のように細かく光り輝いては、さらさらと舞うように落ちてゆく。いつの間にか空には雲が広がりはじめ、細かな霧雨が降り出した。ゆっくりと落ちるやわらかい霧雨は雫のカーテンとなり、雲間から射し込む斜光を受けて光の粒へと変わってゆく。見上げると、稜線を隠した灰色のガスの下に、雪の降り積もった薄暗い谷が見えた。微かに夕日の色を滲ませたガスが、谷を紫色に染めている。雨はみぞれとなり、やがて雪へと変わった。涸沢に辿り着く頃に雪は一層激しさを増し、その夜は大粒の雪が激しくテントを叩いた。

大正池から仰ぐ穂高連峰。博は対岸からの風景を描いた
illustration | Yohei Naruse

博が描いた穂高岳のほとんどが「日本アルプス十二題」のように上高地から見上げた穂高岳だった。彼は次のように語る。

「上高地から仰ぐことのできる断崖の壮観は特筆に値ひするものがある。裾から頂上まで屏風のやうに屹立してゐる断崖が、ただ一目で見えるのである。そしてその所々には、白々と残雪が積り溜ってゐる。これを見れば今まで高山美の何ものであるかを解しなかった人も、直ちにその魅力の捉はれとなるに至るであらう」

現在のように上高地までの自動車道がなかった当時は、徳本峠を歩いて越える山道が上高地を訪れる最短ルートだった。

「この断崖はただに上高地の魅力であるばかりではなく、上高地に至る徳本峠の頂上の展望美の核心を成すものであるといっても過言ではない。今まで比較的単調な山坂路を長い間登ってきて、遂に峠の頂上に達した時に接する、穂高岳に懸ったこの断崖の展望は、壮快とも何とも例へやうのない、寧ろ感激的なものでさへあるのだ」

これほどまでに賛美した穂高岳だが、穂高特有の荒々しい岩稜を描いた作品は見当たらず、落石の多い断崖を描写した記述も北穂高岳に関するものだけである。これには、博が絵を描く際にこだわった「高山の美」に対する考え方が関係しているように思える。彼は「高山特有の霊気とでもいふべき一種清浄な雰囲気」が漂う絶頂に立ち、目の前に連なる山々を臨んだときに「高山美の最も雄大なるものを感得する」と言いつつも、「必ずしも山だけが美しいわけではないことはいふまでもない。山に配された谷でも川でも森林でも高原でも、到る所で特殊の高山美の現はれに接することができるのである」「同じ高山にしても、登るよりも寧ろ眺める方に一層の高山美が感じられるというやうな山もある」と言う。「麓から山を眺める美観では、上高地は全く素晴しい」と博は書き記しているが、彼がもっとも高山美を感得する穂高岳の姿こそ、森が広がり、梓川の流れる上高地から仰ぎ見た、屏風のように屹立する穂高岳だったのだろう。

夜明け前に目を覚ますと、深く、吸い込まれそうな藍色の空が広がっていた。白銀の月と無数の星々が、無機質な岩峰の上に名残惜しそうに浮かんでいる。粉砂糖を振りかけたように薄らと雪を纏った岩肌が、淡いオレンジから赤へと色彩を変化させていく。太陽が昇りきると山は白い朝日に包まれ、清々しい光を透かしたフィルムのように、ナナカマドの葉が鮮やかな赤茶色に輝いている。

涸沢は穂高岳に登る登山基地。シーズン中は多くの登山者で賑わう
illustration | Yohei Naruse
赤い実をつけるナナカマドの紅葉は、涸沢を代表する秋の風物詩
illustration | Yohei Naruse

吉田博は何度も北アルプスを縦走したが、その中に「中房から槍、穂高を経て上高地へ」という記述が残されている。中房温泉から燕岳へ登り、東鎌尾根から槍ヶ岳、北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳を縦走して上高地に下ったのだろう。槍ヶ岳から北穂高岳への岩稜は現在でも難所とされる。当時の登山道と装備を考えれば相当に困難な道のりだったに違いない。

涸沢岳に登ると、西から湧いたガスが光を眩しく反射させながら流れていった。奥穂高岳の岩肌が西日に黄色く染まり、雪の融けなかった前穂高岳の北面が青い氷のように冷たい影を落としている。岩稜を北へ辿った先に、北穂高岳の岩峰が見えている。太陽は西の大地を埋め尽くす雲海に沈もうとする瞬間に強烈な光を放ち、山々を燃え上がらせるように深紅に染めたかと思うと、辺りは静かに輝きを失っていった。宵の海に沈むジャンダルムの岩峰の向こうに、オレンジ色に染まった一筋の雲が、いつまでも細くたなびいていた。

吉田博が愛してやまなかった穂高岳。彼はその山の名前を次男に授けた。吉田穂高は次のように語っている。「父の私への最初の贈り物、『穂高』。この穂高山からとった名前、『ホダカ』の響きが私は好きだ。それは、山を愛し山を描き続けた父の象徴、私にとっての貴重な護符である」と。

<PAPERSKY no.33(2010)より>


route information

日本第3位の高峰である奥穂高岳を中心に、北穂高岳、前穂高岳、西穂高岳を含む穂高連峰は、日本を代表する山岳地帯であり、氷河によって削られた涸沢カールや鋭い岩峰はヨーロッパアルプスにも匹敵する山岳景観を誇る。上高地から梓川沿いに平坦な道が続き、横尾から本格的な登山道となる。涸沢から奥穂高岳へ登り、吊尾根を前穂高岳へ縦走して上高地へ下るルートは穂高岳を縦走する人気ルート。涸沢と穂高岳山荘で宿泊する2泊3日が一般的。奥穂高岳のみなら、再び涸沢へ下る。涸沢から穂高岳山荘へ登るザイテングラートと稜線上にはクサリ場やハシゴがある。岳沢ヒュッテは2006年の雪崩で崩壊、廃業したが、再建されて2010年に「岳沢小屋」として営業再開した。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。