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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene7 烏帽子岳

「日本アルプス十二題」とは、明治から昭和にかけて活躍した山岳画家の第一人者・吉田博が、北アルプスを題材に制作した木版画シリーズ。ここでは毎号、吉田の足跡をたどって、日本アルプスの各地を訪ねます。今回の舞台は『烏帽子岳』。

04/18/2022

山と家族/烏帽子岳

南沢岳にたどり着くと展望が開けた。黒部川によって削られた深い谷の向こうに、薬師岳、五色ヶ原、そして上部を雲に隠した立山へと続くたおやかな山並みが横たわり、豊富な雪渓が広い谷間を清純な白さで埋めている。雲を突き刺すような水晶岳の鋭いピークを眺めながら白い砂礫の斜面を下り、チングルマの咲き乱れる湿地を越える。あたりに立ち込めていたガスが薄れると、丸みを帯びた花崗岩の岩塊が浮かび上がってきた。

1907(明治40)年2月、吉田博は義妹の吉田ふじをとともに出かけた足掛け3年にも及ぶ海外編歴の旅から帰国し、その年の4月にふじをと結婚、翌年には長女・千里を授かった。この頃になると、博は数々の展覧会で輝かしい受賞を重ね、自他ともに認める洋画界の若き実力者としての地位を確立していた。明治44年には長男の遠志が生まれ、公私ともに順風満帆に見えた博だったが、彼の私生活には暗い影が静かに忍び寄っていた。

遠志が生まれてからわずか2ヶ月後の中秋の名月の日に、何度も絵に描くほどかわいがっていた千里が流行性疫痢を患い、3歳2ヶ月の短い生涯を閉じた。さらに生まれたときは元気だった遠志が原因不明の高熱に冒され、足が麻痺して歩けなくなってしまう。あらゆる治療を試し、リハビリには博も必ず付き添った。必死の治療が報われたのか、遠志は小学校に入学する頃には何とか歩けるまでに回復した。明治末期は博にとって大きな苦しみをともなう時期だったのだが、この頃から大正年間を通じては彼がもっとも精力的に日本アルプスへ分け入った時期でもあった。毎年夏になると1ヶ月から2ヶ月もの間日本アルプスに篭り、彼は代表作となる山岳風景画を次々と発表していった。

樹林帯を抜けた静かな場所に素朴な烏帽子小屋が建っていた。
illustration | Yohei Naruse

ハイマツの間を縫うなだらかな道を登ると岩塊の基部に出た。傾斜の緩い岩場を直登し、岩棚をトラバースしてからもう一段上の岩に這い上がると、そこが烏帽子岳の頂上だった。岩塊の西面はすっぱりと切れ落ち、スラブ状の滑らかな岩肌が谷へと続いている。光が強くなったと思って振り返ると、微かに覗いた青空の下に野口五郎岳がどっしりとした山容を横たえていた。

次男が生まれたのは、遠志の誕生から15年を経た1926(大正15)年のことだった。以前にも増して山への思いを強くしていた博は、子どもに山の名前が付けられると大張り切りで、もっとも好きな山の名前から次男を「穂高」と名付けた。当時のことを、ふじをは著書『朱葉の記』の中で次のように語っている。

「次男の穂高は、大正十五年に生まれましたが、このような山登りを重ねているころなので、こうした名にいたしました。長男の時も、ほんとうは、山の名からとりたかったのですが、なかなか適当な名が思い浮かびませんでした。白山にしようか、などと冗談を言い合いました。でも白山では、藪医者かなにかのような名前でいやだと私が申しまして、やめて遠志にいたしました。長男と次男のあいだは十五年もひらきがありましたから、そのあいだに山の遍歴も多く、北アルプスの穂高がすんなり決まったのでした」

前烏帽子岳から見る唐沢岳と雲海。刻一刻と色彩が変化する。
illustration | Yohei Naruse
気品の漂うチシマギキョウは烏帽子岳に多い高山植物のひとつだ。
illustration | Yohei Naruse

吉田穂高も自らの出生についておもしろい回想録を残している。

「生まれ落ちた直後の私の頭は異常に長かったので、それを見た父は即座に、『烏帽子岳といこう』と大まじめにいい出したという。それではあんまりかわいそうだという母の猛反対のあげく『穂高山』に落ち着いたわけだが、すべてにいい出したら退くということの絶えてなかった父をおもえば、私がいま吉田烏帽子ということにならなかった幸いは、実は母に感謝すべきなのかも知れない」

穂高が生まれた大正15年は「烏帽子岳の旭」をはじめとする「日本アルプス十二題」を発表した年でもあり、3月には日本橋三越で「吉田博山岳風景画展」を開催している。次男の名前をめぐる一件は、この頃の博がいかに山に対する愛着を深くしていたかを垣間みることのできるエピソードとして興味深い。

吉田博「烏帽子岳」 1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

夜明け前に目を覚まし、簡単に朝食を済ませてテントの外に這い出る。夜半に降った雨は上がり、薄いガス越しに星が微かに輝いて見えている。日の出を見るために烏帽子岳の手前のピーク、前烏帽子岳へと向かう。オレンジ色に染まった東の空が、夜と朝の狭間に立ち込める青い雲海の上に、一条の光の帯となって広がっている。唐沢岳が濃い群青色に霞んで見えている。目の前に広がる風景が「烏帽子岳の旭」と酷似していることに気づいたのは、ちょうどそのときだった。

朝日に染まる空が描かれた「烏帽子岳の旭」は、東の空を眺めた風景である。版画に大きく描かれた山が烏帽子岳だと思っていたのだが、烏帽子岳の北側は南沢岳への稜線が続いているため、版画のように谷にはなっていない。西から烏帽子岳をこのような角度で見下ろせる場所も見当たらない。唐沢岳の中腹には幕岩と呼ばれる大岩壁がそそり立っているが、版画にも岩肌が描かれている。版画に描かれた山が唐沢岳であることはおそらく間違いない。「烏帽子岳の旭」は烏帽子岳そのものを描いたのではなく、烏帽子岳から見た朝日を描いた作品だということがわかる。「一方に里を控えていて、展望がよく利いて、気象の変化が多い、といったような山を愛する」という彼は、盆地に広がる雲海を描いた作品も残している。1920年頃、博は全く同じ構図で同名の油彩画を描いており、この版画の元となっていることがわかるのだが、一見特徴がないようにも見えるこの風景は、博が好む山岳景観のひとつだったのだろう。

西からの風が強くなった。折り重なる石の影に身を寄せ、淡い紫色に染まりながら少しずつ白さを取り戻していく雲海をじっと眺める。高瀬ダムの灯が、深い谷底で小さく瞬いている。太陽は一瞬だけ鈍く山々を染めたかと思うとすぐに雲の帯に隠れ、空から垂れ込める灰色の雲の下で、山々はモルゲンロートに染まることなく、静かに朝を迎えていった。

<PAPERSKY no.32(2010)より>


route information

烏帽子岳の岩塊は東から見ると細長いドーム型に、南から見ると尖って見え、まさに烏帽子にそっくりの特徴的なピークである。高瀬ダムから北アルプス3大急登のひとつであるブナ立尾根を登るのが一般的な登山ルートで、蓮華岳から烏帽子岳間の縦走は崩壊地が多くてアップダウンも激しいため健脚者向き。烏帽子岳から南へ縦走して野口五郎岳を越えれば鷲羽岳や水晶岳など北アルプスの名峰が連なり、西には雲ノ平が、南には双六岳、槍ヶ岳へと稜線が続いている。烏帽子岳から槍ヶ岳への縦走路は 「裏銀座縦走コース」と呼ばれる人気ルート。博は呑気に草原で昼寝をして山を眺めたり、絵を描くことができる場所としてこのルートをあげている。高瀬ダムまでは信濃大町駅からタクシーを利用。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。