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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene2 劒山の朝

明治から昭和にかけて、あくなき情熱をもって世界中の自然を描き続けた画家がいた。洋画家として、またのちに木版画家として活躍する吉田博である。そんな彼が生涯を通して描いたのが山岳風景だった。ここでは、北アルプスを題材に制作された全12点の木版画 「日本アルプス十二題」 の中から毎回ひとつの作品を取り上げ、彼の足跡を辿って北アルプスを歩く。80年以上の時を経た今、彼の作品は何を教えてくれるのだろうか。イラストレーター・成瀬洋平が、今回は吉田博の描いた『劒山の朝』を追う。

06/17/2021

高山の美への憧れと確固たる信念

山々を覆っていたガスはすっかり晴れ、星空の下で目を覚ました。正面には、いくつもの岩峰を連ねた剱岳の大きな黒い影が、闇の中に沈むように横たわっている。わずかに東の空が黄色に染まりだすと星々は光を弱め、山は静かに朝を迎えようとしていた。

氷河によって削られた「岩の殿堂」剱岳。新田次郎の小説『劒岳〈点の記〉』で描かれたように、陸軍参謀本部の測量官・柴崎芳太郎らがこの山に「初登頂」したのは明治40年、わずか101年前のことである。しかし彼らは頂上で錆付いた鉄剣と銅製の錫杖を発見する。それは平安朝時代の修験者が残したものだったのだが、剱岳は柴崎が登頂するまで公の登頂記録がないほど人間を寄せ付けない厳しい山だった。難所が多いのは現在でも変わらず、数々のバリエーションルートは今なお多くのクライマーを惹き付けて止まない。

世界中の自然を旅した吉田博(1876~1950)。北米をはじめ、ヨーロッパアルプス、エジプト、インド、ヒマラヤなどを題材とした数多くの作品を残した。
illustration | Yohei Naruse
吉田博「劒山の朝」1926(大正15)年
福岡市美術館 蔵

大正年間を通じて毎年夏になると、吉田博は何ヶ月も日本アルプスに篭り、山々を跋渉しては絵を描いた。中でも最も長い縦走が剱岳を越えて立山、薬師岳、雲ノ平を経て高瀬川に下ったときで、30日あまりを費やしたという。メンバーは荷物を担ぐ人夫を含め合計5名。梅雨明けに出発した彼らは剱岳の西に流れる早月川を溯り、川岸にテントを張った。しかし翌日からの雨で停滞を余儀なくされる。3日目にようやく雨は上がり、針金を使って増水した川を渡った。大窓の手前に見つけた岩穴で眠り、雪渓伝いに剱川(おそらく剱沢)に下ってから三田平へ出てテントを張ったというから、彼らは頂上を巻いて三田平へ出たのだろう。

現在剱沢小屋のある三田平へは何度も訪れているようで、昭和7年の帝展に出品された「劍山」や昭和11年に発表された木版画「劍山」は三田平付近から眺めた風景である。それにしても、ルートの整備もままならないであろう時代に、今とは比較にならないほど重く、かさばる荷物を担いで山々を渡り歩く苦労は相当のものだったはずである。一体何が、このような長期にわたる山旅へと彼を駆り立てていったのだろうか。

剱岳への登山ルートには、十数か所のクサリ場やハシゴがある。
illustration | Yohei Naruse
剱沢キャンプ場からは朝焼けに染まる剱岳を眺めることができた。
illustration | Yohei Naruse

朝日が少しずつ岩肌を染め、剱岳の山容が浮かび上がってくる。ところが剱沢キャンプ場から眺める剱岳は、吉田博が描いた「劒山の朝」とは形が異なっていた。山小屋の主人に尋ねると、これは東の鹿島槍ヶ岳のほうから描かれたものだろうという。確かに、剱岳を北に見る剱沢小屋からでは、朝日を浴びる剱岳の西側は影になってしまうが、「劒山の朝」では山全体が朝日に染まっている。そうすると最も右に描かれた雪渓が小窓雪渓、その左が三ノ窓雪渓、その上に連なる岩峰が八ツ峰だということがわかる。

谷を抜けると眩しいほどの朝日が降り注いでいた。峻険な山容で登山者を圧倒する剱岳だが、手前に広がる草原と青い空の中で驚くほど牧歌的だ。それでも剣山荘を過ぎてクサリ場が出てくると剱岳本来の姿を見せはじめた。前剱を越えると岩の塊とでもいうべき主峰が目の前に迫ってくる。目を凝らし、岩の中に小さくへばりつく人々を見つけてルートを確認する。難所として有名な「カニのタテバイ」を登りきると、思いのほか広い剱岳の頂上へとたどり着いた。いつの間にか頂上はガスに包まれ、八ツ峰の岩峰が幽玄な薄暗い影となって浮かび上がっていた。

最大の難所「カニのタテバイ」を慎重に登れば頂上は目の前だ。
illustration | Yohei Naruse

明治27年、18歳で上京した吉田博は、小山正太郎が主催する不同舎に入学する。この画塾では春と秋に2~3泊ほどの写生旅行が行われたが、元来放浪癖の強かった博は独自に写生旅行へと出掛けていった。そんな中、生涯世界中の自然を描き続ける彼にとって非常に重要な旅があった。それは20歳の夏に丸山晩霞と共に決行した、2ヶ月にもわたる奥飛騨での山篭り写生旅行である。

信州から飛騨高山まで、およそ150キロを走破したこの旅で、二人は前人未到の深山幽谷にこそ真の美趣があると信じて山々に分け入り、野宿はもちろん、雨の降る中で夜を立ち明かし、「仙食」と言って木の実や草の芽さえ食べたという。真夏だというのにシラミのわいた垢まみれの綿入れを着て不精髭をはやし、髪の毛は伸び放題。里に下ってきた二人は警官の尋問を受けるほどのありさまだったというが、この旅を通して彼は、自然の中に自らを没することによって真に自然を描くことができるという自然観を確固たる信念としてゆくこととなる。

朝日を浴びる剣山荘付近には明るく牧歌的な草原が広がっていた。
illustration | Yohei Naruse

「登山と絵とは、今では私の生活から切離すことのできないものとなっている。絵は私の本業であるが、その題材として、山のさまざまな風景ほど、私の心を惹きつけるものはない。味わえば味わうほど、山の風景には深い美が潜められている。…山は、登ればそれでよいというものではない。登って、そこに無限の美を感受するのが、登山の最後の喜びではなかろうか」

山岳の美に魂を打たれ、その美をキャンバスの上に再現することが無上の喜びだと語った山岳画家は、朝日の昇る瞬間や霧が晴れる一瞬の高山の美を、何時間も、何日も待ったという。風雨になれば停滞し、天気が回復したら歩き出す。山の摂理に身を任せ、山に没し、ただひたすらに描き続ける。そこには、奥飛騨への山篭りの旅で意識された自然への眼差しが頑ななまでに貫かれており、山に没するためには長期間山に篭る必要があったのだろう。

昼過ぎから降り続いた雨も夜には上り、翌朝は青空が広がっていた。あらゆる色彩を帯びた雲が、剱岳の上空を染めている。準備を済ませてザックを背負う。まだ日の届かない谷間を、私は剱岳を背にしてゆっくりと登りはじめた。

<PAPERSKY no.27(2008)より>


route information

剱岳に登る最もポピュラーなルートは、室堂から剱御前小舎を越えて剱沢小屋か剣山荘に泊まり、翌日頂上を目指すというものだ。剱沢小屋から剱岳往復はおよそ5時間30分だが、岩場の通過は天気や岩の状態、体調などで大きく左右される。岩場はクサリなどがしっかり整備されているものの、岩場に慣れていない場合は注意が必要。とくに雨が降っているときは非常に滑りやすくなるので頂上へ向かうのは避けたほうが良いだろう。岩場では登りと下りのルートが別々になっており、登りは 「カニのタテバイ」、下りは 「カニのヨコバイ」(名前の通り、すっぱりと切れ落ちた岩棚を横に這う)が難所として有名。室堂は古くから立山信仰の拠点として知られる。また温泉地でもあり、付近の山小屋では日帰り入浴も可能。立山を仰ぎながら浸かる温泉は格別。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。