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隠岐に《窓》をつける

大竹昭子

 

02/02/2021

何もかも未知のことばかりの旅だった。隠岐がいくつもの島の集合とは知らなかったし、それぞれの島がこれほど多彩な表情を隠し持っているとは想像だにしなかった。島前、島後というふたつのエリアから成り立ち、島前はさらに三つの島に分かれるが、島ごとに地形が違い、文化が違い、人々の気質が違う。

旅の目的は、島前・海士町にある隠岐島前高校と島後の隠岐高校が、ソニーの開発したテレコミュニケーション・システム《窓》によってつながる現場を見学することだった。とはいえ、説明を聞くだけではどんなシステムか実感がわかなかったし、日本にたくさんある島の中からなぜ隠岐が選ばれたのか、しかも島の外ではなく隠岐内の二校をつなぐことにどのような意味があるのか、などいくつもの謎とともに島へむかったのである。

島旅でもっとも高揚するのは、海原のむこうに島影が見えてきたときである。孤高の人のようにそそり立つ姿に近づき、島に足をつけたとたん、そこに暮している人々がズームアップするように視界に飛び込んでくる。迎えてくださったのは隠岐ユネスコ世界ジオパーク推進協議会事務局長の野邉一寛さんだった。情熱と意欲がほとばしり出ている人物で、彼の運転する車に乗り込むとすぐに、「隠岐というと何を思い浮かべますか?」と質問された。咄嗟に浮かんできたのは、後鳥羽上皇が島流しされた場所ということだったのでそう答えると、「では、なぜ隠岐に流されたと思いますか?」とすぐに次の矢が飛んできてたじたじとなった。

話が進むうちに、今回、見学する “隠岐の高校同士を《窓》でつなぐ” プロジェクトのきっかけはジオパークにあること、さらに言えば、《窓》を開発したソニーの阪井祐介さんと野邉さんの出会いがすべての発端だったとわかってきた。

阪井さんの人生の鍵語は「つなぐ」である。人と人をつなぐ、場所と場所をつなぐ、場所と人をつなぐ。旅が好きで、いろいろな土地を訪ねてはそこで出会った人々とつながりが生まれることに生きる歓びを感じてきた。《窓》はそうした彼の人生経験をベースに着想されたもので、開発に注ぎ込む情熱も並々ならぬものがあったが、それに敏感に反応したのが野邉さんだったのである。

野邉さんは隠岐に生まれ、役場の建設課で働いてきたが、島外に隠岐の魅力が少しも知られていないのをもどかしく思ってきた。隠岐と言っているのに、九州の壱岐と取り違えて対応されることも珍しくなく、認知度がきわめて低い。

だが、考えてみれば、そうなる理由は隠岐の側にもあった。島間の交流が少なく、とくに島前と島後には見えない境界線が引かれており、両者が協働して何かを行う場面はほとんどない。

各島の個性を認めつつ、隠岐の全体的な魅力を外にむかって発信する途はないだろうか。そう考えていたとき、ユネスコが認定するジオパークの存在を知ったのである。

隠岐は自然環境が独特で、しかも島ごとにそれが異なり、地質学的にも注目すべき点が多い。そのことは島を巡ってみればつぶさにわかる。そこかしこで奇岩に出くわし、土壌や岩の色も多彩に変化し、一瞬自分が異国にいるかと錯覚するほどだった。そうした自然の起伏は人々の営みにも影響し、各所に散らばる神社には人々の暮らしに密着した伝統文化が引き継がれてきた。

実を言えば、行く前は島流しの歴史ゆえに”文化果つるところ”のように感じていたのである。ところが、現実はむしろ逆だった。東西に長く、山がちで、繊細な表情をもつ日本列島の魅力を凝縮したような空間であり、海山の幸に恵まれ、豊かな文化が根付いた場所だからこそ天皇家とのつながりも深かったのではないかとも想像したのである。

阪井さんも島を訪れてすぐにその事実に圧倒されたという。島同士の交流を促し、魅力的な土地であることを世界にむかってアピールするために《窓》のシステムを使いたい。野邉さんと阪井さんの意思はここでつながり、実践にむかって動き出したのだった。

ところで、肝心の《窓》がどういうものか、ここでもう少し踏み込んで説明してみよう。外観は55型ディスプレイにカメラが付いており、壁にそれを設置した光景は文字通り部屋のなかに窓が開いたようである。

コロナ禍でzoomやTeamsなどのテレコミュニケーションが一般化したが、《窓》はそれとは似て非なるもので、前者が遠隔地との情報交換に特化されているのに対し、《窓》にはそのような明確な使用目的はない。モニターのむこうに被写体が実在するかのようなリアリティーをもって複数の空間を音と映像で結ぶことを目指しており、使い勝手が決められていないという意味では、商品というより、概念としてとらえたほうわかりやすいかもしれない。

隠岐ジオパークが資金援助を申し出て、これまでほとんど交流のなかった二つの高校に《窓》が設置された。特に島後の隠岐高校では図書室に置かれたので、常時接続された画面には室内に出入りする人影が映り、背後の渡り廊下からも人の気配が伝わってくる。

モニターのデザインが横長ではなく縦長なのはどうしてか、という質問をよく受けるが、そのほうが天井や床が映り込んで空間のパースが強調されるからである。横長だとカバーする範囲は広がるが、見る人に空間の奥行きを感じてもらう度合いは減る。

また、カメラはモニターの中央部に露出しており、可動もしない。カメラの位置が動くと空間を説明することになり、想像に委ねる部分が削がれてしまうからである。このことは実際の建物の窓を思い浮かべるとよくわかる。限られた矩形のなかに家具の配置や人の動きが見えるゆえに、想像しようという意欲が湧くわけで、情報の量を増やすと意識が散漫になって逆効果なのだ。現実の窓からそのことを学んだこのシステムは、まさに《窓》としか呼びようのないものと言えよう。

大人は未知のものに対して、これは何のためのものかと構え、説明を求めようとする。だが、高校生はそうではなくて来るものは拒まずで、つまらないと思えばそっぽを向き、好奇心をそそられれば寄っていく。設置から二ヶ月して双方の高校にその後の様子を伺ってみたところ、生徒たちの反応はどうやら後者のようだ。

隠岐島前高校では《窓》が置かれているのは特別教室で、ふだんは鍵がかけられている。モニターは常時接続されているが、「カーテン」という機能をオンにして画面をぼやかし、音声も消してある。授業で教室に入ってきたひとりの女子生徒が、ぼんやりと見えている隠岐高校の図書室にむかってヘンテコなジェスチャーをして見せた。そっちにだれかいる? いるなら応えて、という無言のメッセージを投げたのだが、それを見てほかの生徒もばらばらと寄ってきて、ぼやけた画面のなかに人影を探そうと目を凝らした。

隠岐高校でも似たようなことがあった。島前高校の生徒のシルエットがカーテン越しに映っているのに気付いた生徒が、「○○さんですか?」と紙に書いてカメラの前にもっていったのである。インスタグラムのアイコンで見ているある子ではないかと閃いたらしく、筆談に及んだのだ。

子どもはたちはカーテンがかかっているほうが寄ってくることが多いという。姿は見えないが気配は伝わってくるというくらいが、彼らにとって馴染みやすい距離感なのだろう。

隠岐高校ではジオパーク学習がカリキュラムのひとつに組まれており、専任のコーディネーターがいるが、隠岐高校のコーディネーターの野邉みなもさんがとても印象的な話をしてくれた。

それまで、ジオパーク関連の企画で隠岐島前高校の生徒に会う機会は少なからずあったが、顔ぶれは決まっており、彼らの周囲にどんな生徒たちがいて、どんな雰囲気でやっているかはわからなかった。《窓》はそれを想像する手がかりを与えてくれ、自分が求めていたのはこれだったと思った。モニターの前を通ると無意識のうちに目をやり、いまむこうは何をしているかなと考えている。隠岐高校とは授業の時程がずれているのでチャイムの鳴る時刻が違うが、チャイムが聞こえてくると、あ、授業がはじまったぞ、とか、チャイムの音色がこっちとちがうな、とか、モニターの明かりが消えているともう消灯したみたいだな、などと些細なことに隠岐島前高校の空気を感じとっている自分がいる。それまで単なる名称にすぎなかった隠岐島前高校にリアリティーが生まれたのだった

海にかこまれた島空間では、地続きの場所ならば通学路やバス停やコンビニなどでふつうに見かける他校の生徒が視野に入ってこない。姿が見えなければ想像が働かず、関心が抱きにくいのは自然な成り行きだったのだろう。

このように同じ隠岐内なのに行き来の少なかった場所が《窓》によってつながり、その前に立てばあたかも窓のなかを覗き込むようにむこうの様子が見て取れるようになった。高校同士の交流はもちろんのこと、別の島とつながったり、その視線を海外にのばしたりと、さまざまな試みが可能だが、そのときには目的意識に縛られずにおもちゃのように戯れていた高校生たちの経験が必ずや活きてくるだろう。

コロナ禍以降、かつては遠いものに感じていたビデオ会議やモニター越しの講義やトークショーが頻繁におこなわれるようになったが、ここ最近、あれはどうも違和感があるという声を耳にすることが増えている。複数の人と会議すると発言するタイミングが読めない、顔しか見るものがないので頭が疲れる、画面のなかのあの人は本当に実在しているのかと不安になる……。

このコメントからわかるのは、人は視野の中心にのみ意識を集中して物事を感じ、考えているわけではない、ということだ。空間に触れ、そこの空気を呼吸しながら言葉や行動を導き出すという生き物として当然のことをおこなっている。離れた場所にいる人をつなぐというのを本気で実践しようとするならば、相手がまとっている空気を無視することはできない。空間も一緒にとらえたとき、ようやくそこに生きて呼吸する「人間」が立ち上がるのだから。

その意味で《窓》の開発は人間とは何かを問いつづけることでもあるだろう。その壮大なミッションを担って、いま錨を上げて大海原に出航したところである。

《窓》プロジェクトとは?
距離の制約を超えて“あたかも同じ空間にいるような”自然なコミュニケーションができる《窓》を通じて、日々の、無目的で心地良い時間、“ただ共に在る”感覚を拡げていくプロジェクト。
text | Akiko Otake photography & videography | Nahoko Morimoto