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Jomon Fieldwork
賢者の欠片

津田直
vol.8

いまから遡ること2,500年から13,000年、日本の歴史がはじまるずっと前に、日本各地で繁栄した縄文文化。このシリーズでは、フォトグラファー津田直が独自のフィールドワークを通して、縄文の歴史を紐解く新しいピースを拾い集めます。第8回は、群馬県・榛東村を探索したエピソードです。

08/11/2021

3000年前の耳飾り文化


縄文人の手によって作り出された石斧や矢尻など狩猟に欠かせない道具や、かつて食卓に並んだであろう土器などの土製品。それらを直に触れる時、僕はいつも指先と指の腹に神経を集中し、目をこらし撫でるように、その凹凸や描かれた線、盛られた土の造形をなぞってゆく。そうすると、僕と縄文人との間を遠く隔てていた時空が、中空で繋がってゆくような錯覚を起こすことがある。

実際にそれがどの程度リアルに繋がっているのかと聞かれても、上手く答えることはできないが、少なくとも博物館などのガラスケース越しに眺めている時には、感じ取ることのできなかった空気が蘇り、遺物は息を吹き返したように、自ら小声で語り掛けてくるような気すらしてくる。

3月初旬に群馬県の榛東村に在る、茅野遺跡(縄文時代後期から晩期にかけての集落跡)を訪れた時、そこから出土したという耳飾りを学芸員の角田さん(榛東村耳飾り館)に許可を取り見せてもらった。その精巧な意匠に驚くと共に、これまでの縄文フィールドワークでは感じることのなかった近しい距離に人=縄文人の存在を感じ取ることができた。それは、耳飾りが日常生活の道具と違い着飾るモノとして、より特定の人物を照らし出すモノだったからかもしれないし、かつての主の気配や作り手の名残がまだ見え隠れしていたせいかもしれない。

茅野遺跡では、主に住居跡からおよそ600点もの耳飾りが出土しているという。これは全国的に見ても稀有な出土例のようで、いつか東日本を中心に広がる耳飾り文化を辿ってみたら面白いことが見えてくるだろうと思った。

耳飾りだが、現代人がごく一般的に身に付けているものの大きさに比べ、縄文人が身に付けていた土製の耳飾りは、小さいものも存在するが、大きくどっしりとしていて、土の塊という重さのものも見つかっている。その直径はおよそ8cmを上回っているだろう。だから耳に「付ける」というよりは、胸飾り・腰飾り同様に、耳飾りはぶら「下げる」という感覚に近いものだったのではないかと僕は想像している。

さらにじっくり目を注いでいると、ある光景を思い出した。それは今年1月にミャンマー北部地域を旅した時に出会った狩猟民族(ナガ族)の古老の耳たぶが、耳飾りを外していると穴の開いた輪っかとなり、だらりと下がっていた様子だ。アジアの辺境にいまなお暮らし続けている少数民族の身なりは、耳飾りを下げた縄文人の姿とさほど遠い存在とは思えないところがある。千年の時を超えた習慣が現代に受け継がれているとしかいいようがない。

耳飾りを下げた人々が眺めていたであろう風景を見に、遺跡を歩くことにした。標高300m程の台地は陽当たりの良い斜面となっていて、周囲に榛名山、赤城山を望むことができる。

「湧き水を利用した水場も発見されているんですよ」と角田さん。生活に欠かせない水が湧いていたという場所に立つと、集落跡は目と鼻の先だった。角田さんは、近くの神社からお借りしたという「雨乞い」の貴重な額入の写真を見せて下さった。それは昭和27年に船尾瀧で奉納された獅子舞を撮影したものだった。

翌朝、まだ雪の残る山道を瀧まで歩んだ。ここへ至る道をかつて縄文人も通ったのだろうか。懸崖絶壁より降り注ぐ恵みの水は榛名山系の湧き水が集まり、流れを生んでいる。その恩恵に命守られた人々の数は計り知れないだろう。一拝させてもらい、山を降りた。

<PAPERSKY no.44(2014)より>

津田直 × ルーカス B.B. 対談動画
2019年9月21日〜11月24日に長野県八ヶ岳美術館にて開催された津田直展覧会「湖の目と山の皿」会場で上映された、津田直とルーカス B.B.による縄文フィールドワークについての対談動画です。


津田直 Nao Tsuda
1976年神戸市生まれ。世界を旅し、ファインダーを通して古代より綿々と続く、人と自然の関わりを翻訳し続けている写真家。文化の古層が我々に示唆する世界を見出すため、見えない時間に目を向ける。主な作品集に『SMOKE LINE』、『Storm Last Night』(共に赤々舎)、『Elnias Forest』(handpicked)がある。
tsudanao.com