「若い頃の自分は、絵を描けばたいていの同世代よりも上手かったです。でも、誰かに影響を受けて画家になったわけではありません。高校時代は勉強せず、サッカーに明け暮れていましたから。でも、サッカーでは大学に進学できないとわかり、美大を受験したところ、たまたま受かったという感じです。自分がアートに興味があることに気づいたのが、30歳ぐらいと遅かったんです。それからは、いろいろなアルバイトや仕事に就きましたが、どれもあまり上手くいきませんでした。アートが消去法で残ったという感じです。アートでダメなら、人生終わるくらいに考えていました。そういう選択をしたんですね」
加藤 泉は武蔵野美術大学の油絵学科を1992年に卒業した。2000年代の始めより、自身の作品を国内と海外の両方で出展してきた先駆者として知られている。2007年世界的に高名なヴェネチア・ヴィエンナーレでは、ヴィエンナーレのメインであるイタリア館企画展を当時MOMAのロバート・ストーがキュレーターを務めたが、加藤はそこに招かれた。
「遅咲きなんですね、30歳になってやっと自分はアートに興味があるとわかったんです(笑) 他のこととは違って、アートへの探求心は尽きませんでした。長い間、アートには関わってきていたけれど、あまり真剣になっていなかった。だから、アートでやっていけなくても、故郷の島根で自給自足の生活をすればよいと。でも、一度はアートで勝負しなくては、と思ったんです」
日本のアート・シーンは、小規模で結びつきが強いコミュニティであり、まるでサブカルチャーのようだ。
「僕は未だに自分がアーティストだと名乗れないです、単に自営業と言っています。自分からアーティストだと言うと、「変な人」だと思われかねないので。ややこしいことに日本ではミュージシャンもアーティストと呼ばれています。日本以外ではアーティストとミュージシャンは別物なんですがね。それに、僕は長髪でバンドもやっているんです。だから、自分のことを説明するときはいつも面倒なことになるんです」
加藤はドラマ―で、音楽レーベルも主宰しているのだ。
「大学生の時は音楽がおもしろく感じて、のめり込んでいましたね。音楽の道に進もうとした時期もあったのですが、人と組まなければいけないとか、そういうことが原因で情熱が冷めていました。たまたま、昔一緒にバンドをやっていた友人のAtsuoが、アメリカやヨーロッパで活躍している「Boris」というバンドでミュージシャンになっていました。再会して話してみると、彼が昔の音源をまだ持っていることを知りました。そのバンドは、「HAKAIDERS」といって、音源をレコード化していました。そして今、活動を再開しています。それとは別に僕は自分が望んだ道を進みながらも、少し前からアーティスト友達と「TETORAPOTZ」というバンドを始めました。プロ志向というよりは、純粋に楽しむためにですね。音楽は、アートと違ってダイレクトに楽しいんですよね。でも、深くは掘りさげれなかったんです。ドラムは独学で覚えましたが、あまり追求しようという気にはならなくて。今の時代はYouTubeがあるので、ちょっと見ながら上手くなろうかと練習したりしますけど」
「大学はアートで卒業しましたが、音楽ばかりやっていました。30歳ぐらいになってようやく画材や技法について、自分なりの探求をし始めました。自分のアートは学校で習って覚えたというよりも、独学に近いです。アートを深堀りしていくうちに、自分から美術史を学ぶようになると、昔から見ていたゴッホやセザンヌといった画家への理解ができるようになりました。彼らのアートへのアプローチを理解すると、必然的にアートに詳しくなっていくんですね。しかし、音楽ではそのような道はたどれませんでしたし、自分は音楽よりも、アートの方に興味があるのだと感じました」
加藤はアートの制作において、美大での教育はあまり役に立っていないという。当然ながら、正真正銘のアートにはオリジナリティと独自の視点が要求される。誰かにスタイルをコピーしろと教えるのは、オリジナリティの欠如でしかない。アーティストは自身の表現を獲得するための旅に出なければならない。スポーツと同じように、アートもたゆまぬ努力と練習、技術の研鑽が求められる。優れたアートは単に才能やアイデアをベースにしたものではなく、総合的なアプローチが不可欠なのだ。
「思い返せば、30歳になるまでの間ずっと、自分の人生や追求したいアートについて考え続けていました。アーティストになろうと決心したのは、その時期があったからです。描いていないときも、ずっと思考の大部分を占めていました。自分のたどってきた道は、ほかの人とはちがう原点があり、かなりの時間と労力を費やして考え抜いた上ではっきりと自覚したのです。僕は自分で自分を追い込んで、決断を明確にしました。NO ART, NO LIFE.自分の決断に自負はありますし、根本的なところで、自分自身は変わっていません」
2012年、日本の所属ギャラリーを去った後、フランスのギャラリーのペロタンが彼にコラボレーションを申し出るまでの間、加藤には所属ギャラリーがない時期があった。依頼のあったコラボレーションを引き受けた加藤は、それを好機ととらえた。その後の彼らとのパートナーシップには目を見張るばかりである。当初はペロタンのアジア唯一の拠点である香港に所属をした。その後、ペロタンは拠点を上海、ソウル、東京、その他の都市へと規模を拡大させた。
加藤は日本には社会的圧力と、同調傾向が過剰だと感じている。多くの状況で「はい」と言わざるを得ない同調圧力があるのだ。アートの世界とそのバイヤーの数はとてつもなく大規模であるのに対し、日本のアート・シーンはアジアに比べても小さく、特にアメリカ文化の影響下にあるという。注目すべきは、必ずしもこの見方はアメリカ嫌いという意味ではなく、単に現実的な見方をしたにすぎない。その一方で、日本には素晴らしい側面もあるという。ホテルやレストランでのホスピタリティやサービス、品質やモノが壊れないところ、そして多くの人々は真面目で、優しいなどは良い点だ。ここで大切なことは、国内と海外の文化の両面が分かるようになったことだという。
「日本でのアートが広がらない理由のひとつは、それで生計を立てることが難しいことです。規模が小さいので、他国と比べると機会も少ないですね。コンテンポラリーアートのコンセプトはあまり学校では教えられていないし、価値が降ってくると思い込んでいるフシがあるのです。アートに社会的地位があり、同時に経済活動が行われる分野として海外では認識されているのに、日本では異なります。その結果、展開しようとする労力も小さいため、失敗も多い。自分たちで価値や重要性を高めることはできるのに、成功例を安易に真似しようとするのです」
日本の文化は人口の減少によって、苦境に立たされるかもしれない。さまざまな分野からプロフェッショナルや職人が少なくなるというのがその理由だ。この傾向は文化を衰退させることにつながりかねない。日本だけでなく世界規模で。文化が衰退すると、やがて人々の生活にも影響を及ぼしはじめる。それは文化が我々のアイデンティティと幸福度が複雑に結びついているからだ。日本の伝統文化について、彼とその作品について聞いてみた。
「僕は京都に、代替わりして老舗の家業を守っている友人たちがいます。彼らは歴史と未来の両方とで戦わなくてはならず、真剣に取り組んでいます。東京に住んでいる人たちと違い、彼らは歴史的考察と革新的思考の共存を体現しています。若い人たちのエネルギーが活気ある雰囲気をつくることで、京都へ人が集まってきて、アートにも影響しています。現在、京都に小さな場所を借りていて、仕事や息抜きでよく訪れています。
江戸時代くらいまでの日本画にとても興味があります。世界の解釈の仕方が独特で、中国の水墨画とも違うのですよね。日本画のアーティストの感受性は、まるでDNAの一部のように僕の中に根付いていると感じます。海外で仕事していると、より一層その認識が強くなります。日本と西洋のアートの明確な違いを意識するようになりました。僕にとっての本質とは、ゴッホや伊藤若冲といったアーティストのアイデアや原動力を理解して、それを自分自身で表現していくことです。僕が個人的なアプローチをむしろ、学術的な芸術性よりも優先させるのは、誰もが根底にあるコンセプトや個人的な表現を受け容れられると信じているからです」
高木康行 Yasuyuki Takagi
東京生まれのフォトグラファー、映像ディレクター。ニューヨーク・ブルックリンへ留学、メディアアートを学ぶ。卒業後、アシスタントとして世界各地をまわりながら、約10年間を過ごしたのち独立。2012年に初の写真集『小さな深い森-Petite Foret Profonde』、2015年に写真集『植木』を出版。映像ディレクター作品として『どうすればトム・サックスみたいになれるか』他多数制作。現在は国内外で精力的に制作活動を続けている。