賢治の宇宙的視点に救われて
幼いころに誰しも一度はその扉を開き、また、年齢を重ねても異なる味わいで読者を魅了する宮沢賢治の深淵なる世界。成熟した大人がその童話の数々を読むと、いかにもファンタジックでありながら背景には何か普遍的なメッセージが込められていると感じるだろう。地球環境や感染症、紛争や差別など、現代社会に生きる人間たちは明らかに“迷い”の時代に突入していることを察している。そんな今、賢治の作品から大切なものをあらためて受け取りたい。岩手の自然や空気や人と触れ合いながら、僕らは新しい時代に生きるヒントを見出そうとした。

旅のゲストはイラストレーターの塩川いづみさんと、ミュージシャンの小島ケイタニーラブさん。塩川さんはかつて、賢治の詩『春と修羅』の序文にドローイングを添えた詩画集を発表。自由な感覚で賢治作品を捉え直し、森羅万象をイマジネーションたっぷりに表現した経験をもつ。一方、ケイタニーラブさんは10年前から古川日出男、管啓次郎、柴田元幸らとともに新たな解釈の朗読劇『銀河鉄道の夜』に出演、音楽監督として参加。名作を引き立てる音づくりを続けている。そんなふたりとともに、岩手の地をダイナミックに巡った。

賢治が生前、唯一刊行した詩集として知られる『春と修羅』は、ここ花巻で印刷された。その活版所跡地を歩きながら、塩川さんはこう話す。
「絵を描くと決まって作品をしっかり読み込んだら、そのときの自分の状況が重なって賢治はやっぱりいいなって思えた。ちょうどプライベートでいろいろとあって、目の前のことで頭がいっぱいになっていたんです。だけど賢治の視点のような大きな視野で見れば、たいしたことないんじゃないかって。賢治の心象風景が自分と重なり合うというか、宇宙的な視点をもつ賢治と対話できたような気がして、とても救われた」

そして、子どものころに触れた賢治の作品にあらためて向き合いたいという気分が高まったという塩川さん。大人になった今だから気づく作品の魅力については、こう語る。
「メッセージがあるようでじつは、こうするのがいいと強く言っているわけでもないと思う。皆に対してわかりやすく何かを伝えるというより、少しわかりにくいところや余白を感じる部分に惹かれるのかもしれません。その余白に自分の気持ちを投影してみて、そういうことかなと納得する感覚が心地いい。子どものころにはできなかった読み方ですよね」
花巻の田園風景を横目にぶらりと歩きながら、塩川さんとの会話はさらに続く。
「ただ石や苔を見て、そこで小さくなった自分が歩いてるっていう想像をしていたら下校時間がとっくに過ぎていた、というような子どもだったんです(笑)。賢治にはそういう感覚があってちょっと安心するというか、それでいいんだよって言われている気がするというか。言い換えると、自分のなかに居場所ができる感じとでもいうのでしょうか」


花巻の次に向かった遠野では、まるで異界への扉がすぐそこにあるかのような不思議な感覚に囚われた。
「小さいころは、自分と隣合わせにいろいろな世界があって、壁を抜けると今とは違う世界に行けるというような想像の余地がありましたよね。大人になるとそういう考えがどんどん消えていって、とても乾いてしまっているなとたまに思う。でも、日常のなかに別の世界が溶け込んでいるように思える遠野は、なんだかとても豊か。情報を浴び続け、流され続ける都会の生活はただ疲れるばかりで、こういう土地を旅するのはとても栄養になるなと感じます」


賢治の作品に通底する、音楽性
幅広い学問やアートに造詣の深かった賢治とケイタニーラブさんの活動はシンクロする部分が多い。音楽だけでなく、執筆活動や中国語の翻訳、ラジオDJといった多面性をもつケイタニーラブさん。賢そして、子どものころに触れた賢治の作品にあらためて向き合いたいという気分が高まったという塩川さん。大人になった今だから気づく作品の魅力については、こう語る
「最近、新聞に発表する掌編小説を書いたのですが、もとはこれと同じ題材で音楽をつくろうとして、長い間、試行錯誤していたんです。だけど音楽ではどうしても伝えきれないことがあると気づいた。小説という表現なら、その題材にさまざまな角度からアプローチして、最も輝くかたちで描けるのではないか、と。賢治もまず題材というか、対象があって、それに最も合う表現方法を使ったんじゃないでしょうか。詩や物語の言語表現にとどまらず、楽器の演奏、花壇のデザインなど、これほど多岐に渡る表現を使いこなしていたのはすごいですね」


そんな賢治の活動に通底する何かを感じるかと問うと、こんな答えが返ってきた。
「世界への探究心でしょうか。コウモリが超音波を出して、その反響を利用して世界を知るように、賢治も世界のさまざまなものに言葉やイメージを投げかけて、そのフィードバックから鉱石や草木や宇宙を知ろうとしたのだと思う。彼のリズミカルな言葉は非常に音楽的だと思いますが、それ以上に、“響き”に自覚的な人だったのでははないかと思います。

花巻では早池峰と賢治の展示館で、初版『注文の多い料理店』を眺める。思えば、賢治が生前に出版した本はたった2冊。作家として一般に広く認められるようになったのは没後のことだ。
「認められるかどうかより、創作し続けることが必要だったんだと思います。僕は作品をつくりながら、自分と世界との距離をチューニングしているところがあります。勝手な解釈ですが、賢治も創作によって、世界との向き合い方を調整したり、万物のなかでの自分という存在を定義しなおしたりしていたのでは」


三陸へと移動した僕らは夜空を見つめながら、自然と銀河鉄道の存在を感じた。朗読劇を通じて銀河鉄道とつねに向き合い続けるケイタニーラブさん。この壮大な物語についてはこう評した。
「友情とか、赦しとか、そのときどきの心を映す鏡になって、車窓からいろんな風景を見せてくれる。この感覚って、旅そのもののようにも感じるんです。無理にわかろうとしなくていい、ただ汽車に乗ればいい。人間がちっぽけであることを感じさせてくれる、岩手という土地のスケールの大きさがあってこそ生まれた作品なのでしょう」



小島ケイタニーラブ
ミュージシャン、作家、翻訳家。「毛布の日」(NHKみんなの歌)をはじめ、アコースティックな音色と細やかな歌による独創的な世界を追求。またラジオDJや小説執筆、朗読イベントのプロデュース、中国文学の翻訳、2021年4月には中国でデビューを果たすなど多彩な活動を続ける。
塩川いづみ
イラストレーター。広告、雑誌、プロダクトなど幅広いジャンルでイラストレーションを手がける。2019年には宮沢賢治の詩にドローイングを描き下ろした詩画集『春と修羅』を出版。賢治の言葉をモチーフに、新たな解釈でイラストレーターとしての新境地を開いた。