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イザベラ・ルーシー・バード
『日本奥地紀行』

19世紀、ビクトリア時代のイギリス人旅行者が、明治時代の日本を旅しながら、イギリス人特有の考察力で、当時の人々、自然への思いを綴った旅行記は今こそもっと注目されるべきではないだろうか。

06/29/2022

1878年の夏、イギリス人の地理学者、トラベルライターのイザベラ・バードが北日本を旅した。この時代に条約港を介することがなく、外国人の旅が許されることは稀だったが、彼女はまだ10代だった通訳の伊藤鶴吉を伴い、横浜から北海道の平取町まで、東北地方の西洋人がほとんど訪れたことのない土地を旅した。

意気軒昂だった47歳のバードは、ビクトリア時代のハードな冒険旅行には慣れていた。少女時代から数々の病気を患ったバードは、医者から病弱な身体を治す「処方箋」としてアウトドア・アクティビティを勧められた。聖職者であった父親の勧めと金銭的なバックアップもあり、若きバードは旅行者としての人生を歩みだし、南米を除くすべての大陸へ赴き、旅の体験を綴った多数の旅行記を上梓した。

今日、彼女の名前はそれほどポピュラーなわけではないが、そのきめ細かな取材により、ビクトリア時代で最も偉業を成し遂げた旅行作家となった。バードは、女性ではじめて王立地理学会のメンバーになり、彼女の植物学、地質学、化学についての豊富な知識はこの時代のロマン主義の旅行文学をさらに高いレベルまで昇華させた。

7ヶ月間滞在した日本で、彼女は日本人の日常生活で垣間見た情景、自然、建築についてなど、さまざまな側面を毎日記録していた。彼女の著作「日本奥地紀行」に述べられている東北地方への旅は、人力車、荷馬、徒歩で険しい道を1,400キロも旅した記録である。道中、彼女自身がセキュリティの面で脅かされることはなかったが、危険を伴った川の横断、予期できない馬の行動など、日々スリル満点の日々だった。

バードが訪れ、目にした景色は現代の私たちにも馴染みのあるものだ。例えば、日光杉並木や東照宮などの描写は今の時代にも通じるもので、このタイムレスな魅力があるからこそ、彼女の作品は色褪せることがないのだろう。しかし、平取町でのアイヌの首長、ペンリウクとの交流からも読み取れる通り、何と言ってもその地で暮らす人々に向けた彼女の真摯な対応こそが彼女の紀行文を他と一線を画するものにしている。

日本が西洋に開国してから約20 年間が経っていたが、バードはまだ英語圏の人たちが知らない情報や経験を熱心に探し求めていた。日英両国の政府関係者の援助もあり、バードは前例がないほど自由に動き回ることができたばかりか、宿泊する宿の予約から旅の手配、訪れる土地での文化的な行事まで、彼女の旅は、しばしば故郷の聴衆に見せるイメージとは相反するような、入念な準備がなされていた。

中年の女性冒険家がたった一人で日本の奥地を旅するということは、当時はセンセーショナルなことではあったので、両政府の気遣いも想像に難くないが、実はこの旅にはもう一つのミッションがあった。それは、キリスト教布教の可能性を探ることだった。この事実は彼女の代表作の大半から省かれている。おそらく、そのことが原因であると思われるが、バードの「日本奥地紀行」の語り口には度々落胆させられる。多くのビクトリア時代の旅行記がそうであるように、スタイル、内容において、言語の問題が立ちはだかっていたように思われ、バードの態度とレポートは、絶えず傲慢な観察者目線で、道徳的に話すスタンスがなく、嫌悪感があらわになっている部分もあり、目に余る偏狭さがある。彼女の文章は、往時の意識を反映しているとはいえ、外国人嫌悪や時代遅れの植民地的な言葉や口調がしばしば見て取れる。

このような疑念は残るものの、イサベラ・バードは高く評価されるべき旅行作家だ。彼女の恐れを知らない行動力、分析的なアプローチ、科学的な真実に基づいた取材スタイルが全作に貫き通されているからこそ、今も彼女の著作は読み継がれているのだろう。「日本奥地紀行」は、19世紀後半に日本の田舎が急速に変貌していく様を綴った素晴らしい旅行記だ。21世紀の今でもその魅力は消え失せていない。