九州に住む人たちは、北方から昆布や鰹を入手するのにはお金も時間もかかるため、出汁を取るのに適した別の素材を近場で探さねばならなかった。偶然にも九州地方、特に長崎県の海では小イワシやカタクチイワシが豊富に獲れる。だから彼らは地元産のイワシで出汁を取ることを思い付き、この考えが大当たりした。現在、長崎県は日本一の小イワシ・カタクチイワシの漁獲量を誇り、日本のいりこの総生産量の25~35%を占める国内最大のいりこの産地となっている。
「いりこ」は東日本では「煮干し」と呼ばれ 、出汁に使用される干した小魚の総称となっている。出汁用のいりこには通常、小ぶりで色が黒めのカタクチイワシか、それより少し大きくうっすらとピンク色を帯びた小イワシが使われている。
これらのイワシを加工していりこにする工程は複雑ではないが、大変な手間がかかる。 まず、獲れたイワシを、金網を貼った竹製のセイロに広げ、セイロごと水に浸して洗浄する。水から取り出したセイロをいくつか積み重ね、そのまま熱湯の入った煮釜の中に入れて3~5分ほど茹でる。イワシが茹で上がったら魚同士が重なり合わないようにセイロ上で丁寧に広げ、広げ終わったセイロから専用ワゴンの中に収めて重ねていく。ワゴンごと温度制御装置が付いた乾燥室に運んで一晩乾燥させれば翌日には完成し、そのまま食べられる状態になる。乾燥室の温度を適切に調節することと各工程を最適なタイミングで済ませることも重要なポイントで、当日の天候と海の状況と相談しながら行わねばならない。これらを完璧にできるのは名人だけである。
長崎産のいりこには他の産地のいりこにはない特徴がある。干しイワシの旨味成分はかつお節と同じイノシン酸であり、水揚げされたイワシの体内にはこのイノシン酸が生成されるが、酵素の作用によって程なく分解されてしまう。このようなイノシン酸の分解を止めるために、イワシを死後できるだけ早く茹でて干さねばならない。長崎産いりこの特徴は、漁港といりこの加工場が目と鼻の先にあること。そのおかげでイワシの体内に風味豊かなイノシン酸がまだ豊富にある段階で加工を開始できるのだ。長崎産のいりこの人気を高めているもうひとつの特徴は、イワシを海水で茹でていること。このふたつの特徴のおかげで、長崎産いりこは他の産地よりミネラル分豊富で、新鮮さが長持ちし、より深くまろやかな味わいを持つものになっている。
水揚げ後に魚が死ぬとその体内にイノシン酸が蓄積される(熟成)が、すぐに酵素の働きによってイノシン酸が分解され始めて減少する。その酵素の働き(による旨味=イノシン酸の減少)を止めるために小イワシ・カタクチイワシを茹でて干す、というのがいりこである(煮干し)。
いりこ出汁を試してみるには、1カップ分の水の中にいりこを数匹入れて一晩置いてみてほしい。それだけで繊細な味わいの出汁が取れる。それより若干時間はかかるが、いりこを浸した水の中に昆布も少し入れておけば、より甘味のある旨味豊かな出汁になる。どちらの出汁も味噌汁、うどんのつゆ、野菜の煮物のベースとして使用できる。そんなに待てないという人はいりこをそのまま食べてもいい。ビールのおつまみに最適だ。