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ストリートからファインアートへ
「HAROSHI」になる

 

11/25/2021

ある初秋の午後、ルーカス B.B.(PAPERSKY編集長)とともに、東京の下町に出かけた。高架下にひろがる薄暗い空地や、古い工場が多いことから、ゲットーっぽい悪いイメージがあるらしく、東京23区内にしては家賃が安めの地域だ。

「僕には好都合でしたけれど。でなければ、これほど大きなスペースを借りることができませんから」

とHAROSHIは言う。

アーティスト、スケートボーダーでもあるHAROSHIは、12年前からこのエリアを拠点としている。

「そもそもスケートスポットって川沿いに多く、下町エリアも有名なんです。引っ越してきた頃は僕も若かったから、スケートばかりしていました。でも、腰を痛めてしまってからは、スケボーの機会は少し減りました」

以前は工場だったアトリエは、他のアーティストとシェアされている。アーティストとして生計を立てるのは難しく、ほんのひと握りしか生き残れない。入居者の入れ替わりは激しい。

HAROSHIはジュエリーデザインを学んだ後、ジュエリーの製造会社に勤めた。そのころ、のちに仕事上のパートナーとなる妻に出会った。

「仕事はキツくて、長時間労働だったのに残業代もなく、給料は少なかった。それに怪しげな仕事でもあった」

HAROSHIはふりかえる。

自分で作品をつくらない限り、このままでは行き詰まる、と彼は感じた。妻と二人でアクセサリーのブランドを立ち上げることにした。同じでなくてはいけないものの大量生産に疑問を持っていたので、素材には木を選んだ。一つ一つが必ず違うものになっていくからだ。

僕の祖父はモノを作るのが上手い人で、子どもの頃の “夏休みの自由研究” では、毎年一緒に木を使って工作しました。二人で材料を買いに “東急ハンズ” にはよく行きました。新学期が始まって、発表会のときには、いつも僕の作品が一番目立っていました。僕と祖父はかなり本気で取り組んでいましたからね。塗るときには、きちんとマスキングまでしていましたから

制作を始めたころのHAROSHIには金がなく、品質の良い木材は手に入りにくかった。ある日、妻が彼に放った一言。

「こんなに使い終わったスケボーがあるんだからスケートボードを使ってみたら…」

それがきっかけで、スケートボードを素材にしたアクセサリーを作り、委託販売の店に持ち込んだ。

「アクセサリーを作って生活したいというだけで、販売戦略などはあまり考えていませんでした。とにかく売れませんでした

HAROSHIは夜間に工事現場で働きながら、昼間はスケートをし、アクセサリーを作るという生活で食いつないでいた。余裕なんてまったくない生活。ある日、店頭で客の目を引くためのオブジェを作ることを思いついた。彼は仏像彫刻の教科書などから独学で学んだ。

ハロシ / Guzo / 2021 / Wooden Buddha statue with carved skateboard elements / H74 × W23 × D13 cm
ハロシ / GUZO / 2020 / Carved skateboard elements / H50 × W18 × D12 cm

作品を作り始めて何年か経つと、個展を開かないかと誘う人が現れた。しばらくすると、ニューヨークのギャラリーに所属するようになり、世界中で作品が売れるようになった。彼らが作品を世に送り始めた2010年頃には、日本でもストリートアートが注目され始めていたが、アートのマーケットは極めて限定的だった。

「僕は自分をアーティストだと思ったことはありません。でも最近になって、やっとその言葉に慣れてきました。ずっと僕には “安い言葉” に聞こえていたんです。最近はみんな自分のことをアーティストだって簡単に言いますけど、僕にとってのアーティストって、ピカソやバスキアみたいな本物の “芸術家” のことなんですよ。だから、自分をアーティストです、とは簡単には呼べないですよね?僕が初めてアートに興味をもったのはストリートカルチャーで…スケート・グラフィックスとかパンク音楽が好きで、Tシャツやグラフィックスで有名なPUSHEAD(パスヘッド)が僕の最初のアーティスト・ヒーローです」

「ニューヨークで初めてのショーをしたとき、もう十年以上も前の話ですが『近くのガゴシアン・ギャラリーで話題のショーをやっているから、見に行ったら』とギャラリーのオーナーに勧められました。僕は友人たちと一緒に、裏口から会場に入ってショーを見て回りました。結果つまみ出されたのですが、当時の僕にはまったく良いと思えなかったし、ぜんぜん理解できなかったんです。そのころは無知だったから『これくらいオレにもできるよ』とか言って…。でも、それがピカソの展覧会だったんです!今でこそ、ピカソは凄いなと理解できるようになったけれどその当時はまったく分かりませんでした(笑)」

「日本のスケーターはほぼ全員、アメリカ文化のフォローをしています。スケートボードはアメリカで始まった文化だから当然と言えば当然なんですけど、僕もビデオや雑誌などをみて、ファッションを真似したり、トリックもビデオを見て覚えたり、ミスった時のキレ方まで真似していました。以前、横須賀でスケートをしていたとき、仲間のひとりが骨折して、救急車で運ばれていったんです。その救急車の後ろを追って滑っていると、そこに米軍のトラックが通りかかったんです。彼らは『(スケボー)キッズ、がんばっているな』と思ったらしく、僕らに葉巻を投げてよこしたんです。それを僕ら、よろこんで拾ったんですけど、これって日本が戦争に負けた後、米軍が日本の子どもたちにチョコレートを投げ与えていた構図とまったく同じだって思ったんです。すごく恥ずかしいと感じました。だから日本人が表現活動をするなら、アメリカをフォローするだけじゃダメだと痛感したんです。作品で自分は認められたいのだ、という強い願望があり、それにはアメリカで正当に評価されなければならないと思いました」

2011年にHAROSHIはニューヨークのジョナサン・レヴィーン・ギャラリーの招待を受けショーを開催した。ストリートアートの評価が頂点にさしかかるころ、ギャラリーはシェパード・フェアリーやインベーダーなど、グラフィティやストリートに関連したアーティストのショーで注目を集めていた。HAROSHIはマーク・パーカー(当時のナイキ社CEO)から依頼を受けて制作した、スケートボードを素材にしたナイキのスニーカー「ダンク」で一躍時の人となった。世界中の注目を集めたHAROSHIは、次々にメディアや雑誌で取り上げられた。しかしその人気を長年維持していくことは、単純に作品を作り続ければいいというものではなかった。

「ストリートアートからファインアートへと、次の段階に進まなければならないことは、自分でも分かっていました。KAWS、キース・へリング、バスキアと同じ道をたどらなければ、もう後がないと。当時のストリートアーティストはみんなそう考えていました。ファインアートのシーンへと昇格させるには何が必要かを真剣に考えました。まずは世界中のファインアートのバイヤーやギャラリーに自分の作品を見てもらわなければダメだと感じました。それには世界中の関係者の集まるアートフェアがうってつけであり、それならその最高峰のアートバーゼルに出品したいと思いました」

ハロシ / Mosh Pit / 2020 / Skateboard deck / H202 × W202 × D10 cm

紆余曲折を経て、HAROSHIは東京のNANZUKAギャラリーの後ろ盾を得てアート・バーゼルに出品した。ここでの発表に自分のキャリアのすべてがかかってくる。結果として、その展覧会が契機となり、彼はこれまでとは違う新しい顧客層を獲得していくことになった。

「今でも僕は、自分を間違いなくストリートシーンから生まれたアーティストだと思っているけれど、プロの “アーティスト” に徹するために、自分からファインアートの世界に入りました」

2022年にはニューヨークの著名なアートディーラー、ジェフリー・ダイチが手掛ける「DEITCH PROJECT(ダイチ・プロジェクト)」での個展が予定されている。

僕が初めてスケートボードを切り刻んで作品を作ったとき『汚い』って言われたんです。それが今でも忘れられません。今でこそ、企業がリサイクル素材で製品を作ることが主流になってきましたけれど、僕らは自分の身の回りにあるもので自分らしいと思える表現をしているだけです。それは古タイヤを使ってサンダルを作るブラジルのおじさんと、本質的に変わらないです。ライフスタイルなのです。だから、環境に配慮している事をアピールしたいだけのトレンディなリサイクル活動は、きっと続かないと思っています

text & photography | Yasuyuki Takagi translation | Yuri Murata