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BORO(ぼろ)の誠実な愛
日本の古い衣類を収集する

“ぼろ”は、青森で何世紀にもわたって受け継がれてきた布をはぎ合わる技法。そんな“ぼろ”の収集に生涯を捧げてきた田中忠三郎の情熱が実り、“ぼろ”が海外で注目を集めている。

01/11/2022

本州の北東の端に位置する下北半島。人里から離れた場所と険しい山が広がり、時に非常に厳しい環境になる土地だ。冬は凍てつくように寒い。大雪が降り、天然資源も概ね少ない。この地で生き抜くために、人々は昔から、手に入るもので暖を取ってきた。特に衣類については手元にあるもので何とかすることが大切だった。

青森の人々は寒冷な気候にされされ、たびたび飢饉に見舞われ、藩の容赦のない統治に苦しめられていた。そんな彼らにとって、木綿は明治時代の後半まで贅沢品だった。だから下北半島の働き者の女性たちは、普段着や日用品を麻布で作っていた。麻糸を手で紡ぎ、手織機で織り上げ、染色する作業には膨大な労力が必要である。このような苦労を経てつくられた麻布は、どんな小さな布切れであろうと、とても貴重でかけがえのないものだ。布が非常に大切にされ、生活に欠かせないものであったことから、青森の人たちの間では昔から「布を切るのは、自分の身体を切るのと同じ」と言われていた。

だからこそ、古い端布にも大きな価値があった。人々は布を再利用できる素材としてだけでなく、布が伝えるこれまでの歴史にも価値を見出していた。その中には、織り主が費やした労力や針仕事を表す作品としての価値も含まれる。

“ぼろ”の技法は、布や衣類を長持ちさせる方法として青森で生み出された。衣類の擦り切れた部分を修繕し、厚みを増やして寒さをしのぎやすくするために、藍染の麻布の端布を縫い付ける。パッチワークが描き出す「風景」のように、“ぼろ”の衣類や上着や上掛けは、「もったいない」の心と、何世紀にもわたってその衣類をまとい、修繕してきた人々の記憶を描き出している。

戦後になって木綿が手に入りやすくなると、この伝統的な“ぼろ”が日常生活から姿を消し始める。そんな中、進取の気質に富んだ青森出身の民俗学者(および考古学者)の田中忠三郎が、“ぼろ”には独自なテキスタイルアートとしての価値があることに気づき、“ぼろ”が伝える人々の物語や伝統が失われてしまうことをおそれて収集し始めた。田中は生涯(1933年~2013年)にわたり、膨大な数の“ぼろ”の衣類をはじめとする3万点以上の民族工芸品を収集し、膨大なコレクションを完成させた。その中の約800点は重要文化財に指定されている。

Photography: AMUSE MUSEUM

田中は収蔵品を売却しなかったため、これらの収集品の多くは現在も田中が住んでいた家に保管されているが、かなりの数の“ぼろ”が東京のアミューズミュージアムに寄贈されている。このミュージアムは田中と同郷の青森出身の大里洋一が設立したが、現在は閉館している。アミューズミュージアムは現在、伝統工芸を紹介し、布の価値や持続可能性に関するより幅広い議論を促すことを目的として、海外各地を回って所蔵品の移動展示会を行っている。

近年、“ぼろ”はさまざまな一流ファッションデザイナー(ルイ・ヴィトン、三宅一生、山本耀司など)の注目を集めるようになった。彼らは“ぼろ”から作品のインスピレーションを得たと語っている。こうしたデザイナーのコレクションには、刺し子の技法や藍染めの布切れの使用など、明らかに“ぼろ”の影響が感じられる。“ぼろ”への関心の高まりを、アミューズミュージアム現ディレクターの辰巳清は大変うれしく思うと話し、デザイナーたちが「“ぼろ”の歴史と心を深く理解してくれている」と称賛しているが、高級ブランドの洋服と農民の普段着は相容れない気もすると語る。

“ぼろ”のつぎはぎの衣類には美的な魅力がある。だが、“ぼろ”のより大きな価値は、厳しい環境の中から生まれた人間の創造力と心や、文化的工芸品としての布の重要性を表しているという点にあるのではないか。「もったいない」の心、長く受け継がれてきた技法、そして何世代にもわたる歴史の中で生まれた風格が、布に人間のさまざまな感情や知識を宿す容器をしての価値を与え、そうした価値が私たちを惹きつける。このような貴重な糸が紡がれて、人間の不屈の精神、知恵、そして愛の物語を伝えている。

Photography: AMUSE MUSEUM