六郷満山で呼び覚まされる “sense of awe”
無動寺の背後にそびえる無動寺耶馬と呼ばれる大きな岩壁を目にした瞬間、「おお」と不意に声が漏れた。マリオさんは静かに手を合わせた。思わず祈りを捧げてしまうような、圧倒的な自然の力に対して抱く畏敬の念。それを “sense of awe” と言うのだと教えてくれた。
我々の原始の祈りは、山や岩や木など、自然そのものを対象としていた。そのうちに仏教文化が普及してお寺という形になり、自然崇拝は神仏への祈りと結合した。大きな岩の袂にある祈りの痕跡は、不思議とその場所への敬意を表さずにはいられない。ご住職にお寺の成り立ちを伺ったところ、六郷満山の密教寺院は山際の谷の深い所にあることから、やはり山との関係は切り離せないそうだ。
国東半島の中心に位置する六郷満山総持院・両子寺。僧侶の寺田豪淳さんはマリオさんが“真理の人”と評し、信頼を寄せる人物である。
豪淳さんにご案内いただき、石段を登って、懸造りと呼ばれる崖に建つ独特の建築様式の奥の院へと歩みを進めていく。途中、山門と鳥居を順番にくぐり抜ける。
国東半島の最高峰・両子山は標高約721メートル、豊かな水源となる高い山や深い森がない。また火山性の土壌で保水しにくく、降水量も比較的少ない。故に、先祖たちは農耕を営む暮らしの中で、水への渇望から山に祈りを捧げてきた。山中の岩は水の湧く目印なのだという。
「日本人は、豊かな自然環境の中で育まれた共通の感性や感覚を持っていて、言葉にしなくても“体が知っている”というようなその身体感覚が宗教観にも通じている。」と豪淳さんは言う。自然に対して神性を見出すこと、それは日本人の持っている“sense of awe”だ。
また、春には、一本一本違う色の山桜が不規則に配置された山の全景を楽しむことができ、いかにも国東半島らしい美しさをみせてくれるという。意図されていない、自然のありのままの姿こそが魅力なのだ。そして、自然の景観の、その美しさの中に立つと、「私は自然の一部である」ということを体感するのだそう。想像するだけで、生命の息吹がそこら中から聞こえてくるような気がする。
マリオさんのお気に入りの場所の一つだという一ノ瀬溜池にも立ち寄った。人間の根源である水という生命の喜びの象徴と、山肌の一部がむき出しになっている六郷満山らしい力強さと躍動感を感じる風景が広がっていた。
緩やかな散策道を歩いて、最後の数メートルは断崖を伝って登りきったところにある五辻不動尊。懸造りのお堂から振り返ってみると、国東半島を一望する絶景。何も考えずともただただ美しい眺望だが、六郷満山の中心となる両子山、岩峰がそびえ起伏に富んだ山々と原生林の濃い緑、麓の方は穏やかな地形の先に瀬戸内海が広がり、この地の文化を育んだ豊かな自然をありありと感じられる。
旧千燈寺跡には、寺を守る石造仁王像が今も静かに佇んでいる。しかし、背景にあるはずの本堂が焼失してしまい、石で造られた上がり段と基礎部分を残すのみとなっていた。
「ないからこそ想像できるよね」とマリオさんは言った。その瞬間、かつての古刹のイメージが色彩をともなって目の前に現れた。今はもう形のないものも、確かにここにあったのだろうというその面影が、時空を超えて語りかけてくるのである。
現代に生きる我々は、いつも、それがどんな情報や価値を持っているか、何を手にすることができるかということに注目しがちだが、本当に求めているものは何かということや、自分の中にすでに備わっているものについては案外気付かずにいることが多いのかもしれない。余白から生まれるものを見つめる時間の美しさたるや。
六郷満山には、こういった想念を呼び覚ますようなきっかけがあらゆる所にある。かつて一大勢力を誇り繁栄した文化が、長い時間の中で外から来た多様な文化を受け入れ変容を繰り返しながらも伝承されてきた。
暮らしのそこかしこに垣間見る祈りの風習やその痕跡、長い時間をかけて朽ちていく中にある石像、祈りや修行の場であった岩場など、感覚を開放してそのモチーフをじっくり見つめてみると、背景にあるストーリーが浮かんでくるのだ。少しずつ、自然の中で荒廃していくものもありながら、その面影はかつての想いを現在までに運んできている。