火事や枯死を乗り越えて|別府の竹細工 2

「ここで働く人たちはみんな高齢者。全員が地元の出身です」。永井貴美代はそう語るが、これは彼女自身にも当てはまる。彼女は84歳で、昭和4年に別府に生まれた。別府で約100年前から営業を続ける製竹工場、「永井製竹」の四代目社 […]

06/25/2013

「ここで働く人たちはみんな高齢者。全員が地元の出身です」。永井貴美代はそう語るが、これは彼女自身にも当てはまる。彼女は84歳で、昭和4年に別府に生まれた。別府で約100年前から営業を続ける製竹工場、「永井製竹」の四代目社長である。「いまの若い人たちは、こういう仕事をやりたがらないから」と彼女は言う。「若い子には大変すぎる仕事です。だから働いているのは、歳を取っても技術をもっている高齢者ばかりなんですよ」。永井は昔もいまも、別府の竹業界にとってなくてはならない存在だ。永井製竹では大分県内にある竹林から伐採したばかりの竹を、職人が細工に使える形に加工している。
竹には550以上の品種があるが、この地で使われているのはマダケ(学名Phyllostachys bambusoides)。「私がここで働きはじめたのは1954年のこと。当時、25歳でした。結婚してからは、夫とふたりで工場の一室に住みこみました」。彼女はいまでもここにいて、工場の入り口に置かれた机で仕事をしている。工場の床は、竹の粉だらけ。トタン屋根の倉庫には幹竹がぎっしり詰められている。壁に立てかけて、天日乾燥中のものもある。この工場は2種類の役割を果たす。ひとつは竹を細工に使える形に加工することだ(具体的には、竹の幹を煮沸して油分を取り除き、乾燥させて象牙色にする)。
別府の製竹業界の黄金期は1980年代のバブル経済崩壊とともに終焉したが、永井にはそのずっと前の第2次世界大戦後から、次から次へと苦難が襲いかかっていた。まず、1965年には工場が火事になり、すべてを失う。「その次は、竹林が全部枯れちゃったの」と彼女は回想する。竹の開花周期は60年から120年。花をつけたあと、竹林は枯れて死に絶える。「あの10年間は本当につらかったですねえ。苦難の10年でした」。その苦難の時期に、永井は備蓄しておいた竹を使って、スプーン、焼き鳥用の竹串、盃などの製品をつくらざるを得なかった。「1960年代には100人以上の従業員がいましたが、いまでは24人だけ。若い人はいません。ときどき若い子が入ってきますが、大変な仕事ですから、しばらくすると辞めてしまいます」。工場内を歩くと、高々と積みあがったマダケの山の間に、高齢の職人たちが黙々と幹竹を切ったり、削ったり、洗ったり、乾燥させたりしているのが見える。彼らにとって竹はいまでも、何千年にもわたって日本人の生死に深くかかわってきた文化的、宗教的に重要な素材である。
 
This story originally appeared in PAPERSKY’s NEW ZEALAND | LONG Issue (no.41)