生きている民藝|PAPERSKY japan club

『白洲家の晩ごはん』という本に白洲正子家族が普段使いしていた食器が紹介されている。そのなかに、江戸後期の瀬戸の器だという石皿、麦藁手のそば猪口や茶碗、馬の目皿がある。これらの器を今も当時と変わらないやり方でつくっていると […]

06/26/2018

『白洲家の晩ごはん』という本に白洲正子家族が普段使いしていた食器が紹介されている。そのなかに、江戸後期の瀬戸の器だという石皿、麦藁手のそば猪口や茶碗、馬の目皿がある。これらの器を今も当時と変わらないやり方でつくっているという窯元があると聞いて訪ねてみることにした。瀬戸で八代続く瀬戸本業窯である。
古くは平安時代から陶器がつくられ、鎌倉時代には日本で最初に釉薬をかけた焼き物の本格的な生産が始まっていたという瀬戸。江戸後期に入ると磁器をつくる技術が導入され瀬戸も次第に磁器生産が主流になる。近代、さらに戦後になると窯業の機械化、産業化が急速に進んでいった地域でもある。
時代の荒波を受けながらも瀬戸本業窯は300年近くにわたり一貫して手仕事による実用陶器をつくり続けてきた。昔ながらのやり方をこの窯が守り継承してきた理由のひとつが「民藝」との出会いだった。
民藝運動を主導し精力的に全国の産地をまわっていた柳宗悦らが瀬戸本業窯を訪れたのは六代目水野半次郎のころ。鎌倉時代以来、瀬戸の風土とともに育まれてきた日用の雑器に、柳たちは「無銘の美」、「用の美」を見出し、高く評価した。効率や事業性を求めて地域の窯元の多くが転業や大規模化に向かうなか、自分たちのやり方を固守してきた瀬戸本業窯にとって、民藝との出会いと評価が大きな励みとなったのは想像に難くない。
陶器の焼成が登り窯からガス窯になったこと以外、ものづくりのスタイルは創業以来ほとんど変わっていないという。陶土や釉薬は専門業者から「製品」として購入するのが一般的な昨今、瀬戸本業窯では土も釉薬も自分たちでつくる。分業制という作業スタイルも昔のままだ。ろくろを引く職人はひたすら器の生地をつくり、絵つけをする職人は絵つけに専念する。驚いたのは馬の目と麦藁手(ともに瀬戸本業窯の代名詞的な器の文様)に至っては、馬の目だけを描く職人と麦藁手だけを描く職人がそれぞれ専任でいるという。
職人が職人に徹し、同じ作業を繰り返すことで速度が上がり、技術は熟練し、その結果として無銘の美が生まれる。それはまさに柳が唱えた民藝精神を体現したものづくりのあり方そのものである。瀬戸本業窯の仕事場に生きている「民藝」を見る思いがした。