孤高の画家、ジョージア・オキーフを追いかけて

男性が支配していた20世紀初頭のアートシーンに新たな可能性を切り拓いた画家、ジョージア・オキーフ。周囲の自然にインスパイアされ、アメリカ西部を代表するモチーフに新たな息吹を吹き込んだオキーフの半生をたどる。 アメリカの現 […]

12/19/2018

男性が支配していた20世紀初頭のアートシーンに新たな可能性を切り拓いた画家、ジョージア・オキーフ。周囲の自然にインスパイアされ、アメリカ西部を代表するモチーフに新たな息吹を吹き込んだオキーフの半生をたどる。
アメリカの現代美術を代表する画家、ジョージア・オキーフは1887年、ウィスコンシン州のサン・プレーリーという小さな町で、農場を経営する両親のもとに生まれた。シカゴやニューヨークで本格的に美術を学んだ後、サウスカロライナやテキサスで美術教師を務めながらも、広大な西部の風景にインスパイアされて油彩や木炭画、水彩画などの創作を行っていた。あるとき、大胆な木炭画の作品が国際的な写真家、アルフレッド・スティーグリッツの目に留まり、彼が運営する現代アート専門のギャラリーに展示されることになる。これをきっかけに、アートを通じたふたりの交流が始まった。
1918年、スティーグリッツが求めるまま、オキーフは後ろ髪を引かれる思いでテキサスを後にし、ニューヨークに移り住んだ。当時、スティーグリッツは前衛的なアートコミュニティの中心にいて、オキーフは彼らを通じて芸術的な刺激を受けることができた。オキーフを代表する花を主題にした一連の作品もちょうどそのころ、1920年代を中心に描かれている。その後、オキーフはスティーグリッツと結婚するのだが、24歳も年上で支配的、いつも取り巻きに囲まれた彼との暮らしには息苦しさを覚えることもしばしばだった。オキーフのことを、つねに「典型的な女性画家」として扱ってきた夫への反発もあったかもしれない。
1929年の春は彼女のキャリアの転機となった。夫の反対を押し切り、友人の画家、レベッカ・ストランド(夫はスティーグリッツとも親交の深い写真家のポール・ストランド)を伴い、長らく夢見てきた南西部への旅に出かけたのだ。行き先はニューメキシコ州のタオス。当時も今もアーティストのコミュニティで知られる、高地砂漠地帯の小さな街だ。タオスでは、プエブロ族の夫をもつソーシャライツ、メイブル・ドッジ・ルーハンの自宅に滞在している。メイブルの自宅の敷地内に仕事場を借りたオキーフは、ニューメキシコには自分が求めているすべてのものがそろっていることに気がついた。はるかかなたの地平線まで遮るもののない乾いた大地、厳しい砂漠気候に育まれた植物、透明で強烈な太陽の光。垂直のニューヨークに対し、ニューメキシコは水平だ。「ここでは世界は果てしなく広い」……オキーフは晩年、ニューメキシコについてこんなふうに語っている。ランチョス・デ・タオスのサンフランシスコ・デ・アシス教会やタオス・プエブロのアドービ建築、「カトリック教会の薄い黒いヴェールが、ニューメキシコの風景全体を覆っている」と綴った十字架……、ニューメキシコをテーマに描いた新作は翌年2月の展覧会で発表され、ニューヨークの批評家たちに大絶賛された。
オキーフは翌年、翌々年の夏もタオスで過ごしている。このときは砂漠に散乱している白い動物の骸骨を熱心に集めた。ニューヨークでも砂漠を題材にした制作ができるよう、タオスを発つ際、集めた骨を木樽に詰めて送るのだが、このとき、ニューメキシコでつくられる布製の造花を、隙間いっぱいに詰め込んだ。ニューヨークに戻り、なんの気なしに造花を馬の骸骨の目に挿してみたところ、オキーフはその造形を大いに気に入った。
『Mule’s Skull with Pink Poinsettia』に代表される、オキーフが得意とするモチーフを組み合わせたそれらの作品は、再び批評家たちの度肝を抜くことになる。
重度のうつ状態から回復して再びニューメキシコに戻るのは、1934年のこと。このとき、「世界で最も美しい場所」と噂に聞いていたゴーストランチを発見する。「画家のパレットでつくられるすべての地の色が、果てしなく続くこの不毛の大地にあるのです」と綴ったゴーストランチでは、多くの時間をひとりきりで絵を描くことに費やした。以来、夏のほとんどをここで過ごしたオキーフは、1940年、念願叶って敷地内にランチョ・デ・ロス・ボロスという家を手に入れた。アドービ建築のその家からは、小高い丘が連なるかなたにペダーナル山を一望できた。この山をモチーフにした作品を30枚近くも遺した他、1930年代から50年代にかけては『Part of the Cliffs, 1937』、『Purple Hills Ghost Ranch』など数多くの風景画を描いているが、その多くはゴーストランチ周辺の景色だ。
ゴーストランチの家ではオキーフが最も大切にしていた孤独、もしくはプライバシーが保たれていたが、日常生活を送るためにはあれこれと心を配らなくてはならなかった。電気はないし、水はポンプで汲み上げなくてはならない。土地は貧弱で作物は育たず、食料は120km離れたエスパニョーラまで買い出しに行かねばならなかった。ほんの数マイル離れたアビキューの村外れの、農園つきの古い廃屋を手に入れたのは、痩せ土のゴーストランチでは叶わない夢があったからだろう。オキーフは3年をかけて崩れかけたアドービの廃屋を改装し、いくつもの中庭と通路、実り豊かな菜園と大きな窓を備えた快適な家に蘇らせた。その窓からはオキーフの心を捉えた「ホワイト・プレイス」という奇岩の風景も見渡せた。
1946年にスティーグリッツが亡くなると、オキーフはニューヨークを完全に離れ、夏と秋をゴーストランチで、春と冬をアビキューの家で過ごすようになる。ゴーストランチの荒々しい自然が織りなす神秘に想像力を掻き立てられる一方で、アビキューの家には美しい庭があり静謐さがあり、穏やかな暮らしがあった。こちらではウィスコンシンの実家の農場で父親がしていたように、夜明け前に起きては畑仕事に精を出し、料理に没頭する。アビキューとゴーストランチ、ふたつの家はすべてが完全に調和していた。 
その後、オキーフはニューヨークのアートシーンと距離を置き、亡くなる直前までの40年を、2頭のチャウチャウ犬と数人のアシスタントとともにこの地で過ごしている。50年代に入ってからは旅に目覚め、ディエゴ・リヴェラ&フリーダ・カーロ夫妻に出会ったメキシコ、ペルー、ハワイ、日本をはじめアジア各地を巡っているが、やはりニューメキシコこそ彼女の故郷だった。サンタフェで亡くなった彼女の遺灰は、遺言どおり、ゴーストランチに撒かれた。オキーフの魂は今も変わらず、彼女が最も愛したニューメキシコの大地に眠っている。
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