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止まることなく踊りつづける|四宮賀代|阿波踊り 1

公園や通りに設けられた演舞場に、太鼓の音が轟きその音が跳ね返って、徳島の街を埋め尽くす群衆の上に響き渡る。「ヤットサー」、「ヤット、ヤット」のかけ声とともに、汗だくになった人々が身体を揺らし、飛びあがり、両手を頭上高くに […]

06/04/2012

公園や通りに設けられた演舞場に、太鼓の音が轟きその音が跳ね返って、徳島の街を埋め尽くす群衆の上に響き渡る。「ヤットサー」、「ヤット、ヤット」のかけ声とともに、汗だくになった人々が身体を揺らし、飛びあがり、両手を頭上高くに上げ、踊り狂う。死者の魂を慰めるために始まったともいわれる阿波踊りは、日本を代表する祭りのひとつである。
止まることなく踊りつづける|四宮賀代
阿波踊りは日本で最長かつ最大で、どこよりも混沌に満ちた祭りである。8月の4日間、何百人もの踊り手が蒸し暑い通りを埋め尽くし、日本では死後の世界から先祖の魂が戻ってくる期間として、死者を慰めるお盆の時期、徳島の人々は独特の踊りに興じる。阿波踊りは高揚感と陶酔をもたらす踊りだ。人々は太鼓の乱打とかき鳴らす三味線の音色に合わせて乱舞し、興奮が高まっていく。陶酔、汗、大きな音─どんな人もその魔法にかからずにはいられない。だからこそ、毎年150万人近くの人々が夏に徳島を訪れる。こうして祭りは受け継がれ、他の土地の伝統的な祭りでは見られないようなにぎわいを地域にもたらしている。
徳島で生まれ育った四宮賀代は、2歳で初めて阿波踊りを踊ったという。「当時、幼い私は、2日か3日めには足がパンパンになりましてねぇ。冷水でしぼったタオルを巻いて冷やしてもらい、腫れを引かせながら、踊りをしていたようです」。今年で50歳の四宮は、阿波踊りの女踊りでもっとも名の知れた踊り手である。彼女は有名な阿波踊りの団体のひとつ「阿呆連」の一員だった。「阿呆連」を脱退後、1989年にたったひとりの踊り手である四宮と鳴り物師6人で阿波踊りグループ「虹」を結成した。現在は、「虹」でリーダーを務めながら、阿波踊りの指導もおこなっている。踊り手たちは定期的に、「連」(踊り手と鳴り物師の集団)ごとに地元の練習場に集まって稽古に励み、技術に磨きをかけて、自分たちの独自のスタイルを築いていく。
「もともと、阿波踊りは町内会で構成されていて、各町内に踊り集団は存在していましたが、町をこえ「志」を同じとする者が集まった連は2〜3つしかなかったらしい」と四宮は言う。戦後になると、その大きなグループが分派して、いくつもの小さなグループが誕生したらしい。現在、大きな連は32、小さな連は何百もあり、これらがトップの座を競いあうのだと思われがちだが、阿波踊りの魅力は競争でもなく、独自の踊りのスタイルでさえないという。四宮に阿波踊りの魅力はなにかと尋ねたら「時代がかわっても、着つけを簡略化することなく、浴衣をちゃんと着つけて踊っていること、伝統的な鳴り物が奏でる生の音に合わせて踊っていることが、阿波踊りの魅力。そして、踊りは昔から受け継がれてきたものを基本に、現代に合った踊り方に進化しているからこそ、昔もいまも活気が失われないのだと思います」。
四宮には写真家という本業があるが、彼女が踊りについて話す様子を見ると、踊り手が本職のように思えてしまう。阿波踊りには、大変な労力が必要だが、夢中になると止められない。四宮は何冊もの分厚いスクラップブックと写真がぎっしりつまった箱を取りだし、ここ何十年かの踊りの記録を見せてくれた。私たちはそれを見ながら、とっぷりと日が暮れるまで彼女の話に耳を傾けた。こうして話している間も、できれば踊っていたいのではないか…と思わせるほど、彼女の踊りにかける熱意を強く感じた。
四宮賀代
阿波踊りグループ「虹」代表
踊り手として活動する一方で、阿波踊りの指導活動も行っている。