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朝顔を愛して止まない文化の始まり|入谷朝顔 (1) 半谷善之

毎年、7月6日から8日の3日間、東京の下町、入谷では、夏の風物詩のひとつ、朝顔市が開催される。この地は、江戸末期から明治にかけて、何軒もの植木屋が軒を並べ、毎年夏になると、変わり朝顔を咲かせて競い合っていたという。当時の […]

08/26/2015

毎年、7月6日から8日の3日間、東京の下町、入谷では、夏の風物詩のひとつ、朝顔市が開催される。この地は、江戸末期から明治にかけて、何軒もの植木屋が軒を並べ、毎年夏になると、変わり朝顔を咲かせて競い合っていたという。当時のにぎわいを今に伝える朝顔市では、約120軒もの朝顔業者が出店し、大事に受け継がれてきた朝顔の種を栽培し、その苗を販売している。
 
それは19世紀半ばのこと。緑豊かな江戸の町に夏が訪れていた。夜の外気は、土と花の香りが混じったにおいがする。梅雨明けを迎えたばかりで、水分をたっぷり含んで青々と茂った葉が縁側から外に広がり、塀を伝って、道や寺社の砂利道まで伸びている。当時、東京は江戸と呼ばれ、19世紀には世界最大の規模を誇る都市だった。また、世界で最も緑あふれる街のひとつでもあったという。1960年代にスコットランド出身の植物学者、ロバート・フォーチュンが江戸を見てまわり、町に息づく庭園文化に感銘を受けたことを旅行記に綴っている。彼を特に魅了したのは、下町の木造の家の外に並べられた鉢植えだった。庭いじりは、将軍やその家臣だけに許された娯楽だったが、江戸の町が拡大し、庭の数が増えるにつれて、植木屋があちこちに店を出すようになり、庶民もほどなく、植物に熱をあげるようになった。植木屋は貴重でめずらしい花の突然変異種を育て、競い合った。こうした植木屋同士の競争によって、町の隅々まで広がっていた花卉園芸ブーム。花卉園芸熱はその後100年近く続いたのである。
半谷善之が園主をつとめる「江戸川園」も、明治時代から植木屋を営み、この歴史の一部を担ってきた。「江戸時代、入谷周辺に集まっていた植木屋がこのあたりに越してきたんですよ」と半谷は話す。「私は18歳で家業を継ぎました。物心ついたときからずっと、いつかは植木屋になるんだと思っていました」。19世紀の植物ブームでは、ある植物がこのブームを象徴する存在になっていく。その植物とは学名イポメア・ニル。英語ではモーニング・グローリーと呼ばれ、日本ではアサガオとして知られている。半谷は、家々が軒を連ねる江戸川区で多数の朝顔の苗を栽培している。朝顔の一部は青い花をつけている。ラピスラズリの石をやわらかくして広げたような花だ。薄茶色の花をつけた苗もある。赤い煙のような、色あせた歌舞伎の衣装のような色だ。縞が入っていて、白い線がアクセントを添えている花もある。どの花も、日が高くなるとしぼんでしまう。「短い時間しか咲かないところが魅力なんです。朝顔がこれほど人気を集めている理由はそこにあると思います」と半谷が語る。
19世紀半ばに市街地の都市化が進み、植木屋や朝顔売りは徐々に遠くへの移転を余儀なくされた。1912年には、最後まで踏みとどまっていた植木店が入谷から姿を消した。「今では、多くの朝顔業者が千葉や埼玉で栽培しています」。しかし第二次世界大戦後、朝顔の産地だった入谷で、入谷朝顔まつりが開催されるようになった。「入谷の朝顔まつりで、この朝顔を全部売り切ります」。まわりに並んだ数百個もの朝顔の鉢植えを指して、半谷が言う。入谷朝顔まつりは、はるか昔に植木屋が軒を連ねていた入谷という町の歴史を忘れないために開催されている。しかし、朝顔が経てきた本当の歴史を今に伝えているのは朝顔の種だ。半谷は、種まきの作業を4月中旬に行っている。蒔く種のほとんどは「一族に何世代にもわたって受け継がれてきた種」だという。半谷は話している間も手を動かして、朝顔の蔓を植木鉢に立てたプラスチックの支柱に軽く巻く作業を続ける。「ちょっとゆるめに巻いて、余裕をもたせるようにしています。買ったお客さんが好きな形に変えられるようにね」。伝統を後世に伝えるために、毎年、この時期になると半谷は朝顔に向かい、丁寧な手作業を施している。
 
半谷善之
江戸川区鹿骨にある農園「江戸川園」園主。また、江戸川花卉園芸組合と入谷朝顔組合の組合長も務めている。