古事記にも登場する、吉野川と“枯野”
江戸時代から明治時代にかけて、日本屈指の水量を誇る吉野川の水運業で栄えた、徳島県西部の「にし阿波」。船を使っての吉野川の往来は、『古事記』に“枯野”という言及があるほど、古くから盛んだったらしい。川湊(船着き場)で水揚げされた物資を最奥の祖谷まで運ぶために使われたのが、祖谷街道だ。かつての祖谷街道は植林などで一部、消失してしまったが、旧道の面影をたどりつつ、より楽しく歩けるようアレンジしたものが「祖谷街道トレイル」である。
ルートを開発したのは、つるぎ町で山と川のガイド業を営んでいる「Trip 四国の川の案内人」の牛尾健さん・愛子さん夫妻。本来の「祖谷街道トレイル」は川湊の貞光から剣山を経て、重要伝統的建造物群保存地区の落合集落、「かずら橋」のある奥祖谷、そして祖谷渓へといたるおよそ110kmの道のりだが、今回は牛尾さんの案内でその東側44kmを紹介する。旅のお供は、レポーターやモデルとして活躍する「スウェーデンのアウトドアガール」こと、ヤンニ・オルソン。昨年も剣山周辺でハイキングやキャンプを楽しんだヤンニはこのエリアの大ファン。お気に入りの山装備で参加してくれた。
出発地点の貞光は、商業と交通の要衝として栄えた川湊のひとつ。特産である藍やタバコの集散地でもあり、おおいに賑わったという。目抜き通りにはこの地特有の「二層うだつ(建物2階の壁面に備えた、防火用の袖壁)」のある商家が連なり、当時の面影を偲ばせる。とはいえ、ルーカスとヤンニの心を捉えたのは、うだつではなくおやつ! 「あづまや製菓」で郷土の銘菓「金露梅」を買い求め、昭和37年創業の駄菓子店「かずや」でおかあさんの手作りケーキを頬張り、ようやく出発する。
貞光の、旧剣山道の石碑から旧道をたどる。「祖谷街道トレイル」ではのっけから急な上りを覚悟しなくてはならない。にし阿波には、標高100mから900mの山間地域に、じつに200もの集落が点在する。ぎょっとするほどの急傾斜地には、民家や畑が斜面に張りつくように立地する。急峻な土地に住みながら、先人たちは工夫を凝らして農業や暮らし、文化を守り、継承してきた。近年では、そうした“生きる知恵”がつまった「傾斜地農耕システム」の、人と自然環境が調和したサスティナブルなありようから「世界農業遺産」に認定された。そんな“生きた遺産”を眺めながらトレイルを進む。この一帯には、全行程80kmの「端四国八十八ヶ所霊場」があり、各集落にお堂が設けられている。ここでしばしのおやつ休憩。三方が開けたこの地方特有の「三方開き」は山村の風景を楽しめるつくりで、ハイカーの休憩にぴったりなのだ。
「ソラの人」たちのたくましい暮らし
この日は急傾斜地集落のひとつにある農家民泊「家曽敷」に宿泊。オーナーの東城千春さんに、在来品種のゴウシュイモやモチトウモロコシ、地元で捕れた鹿肉など郷土の食材をごちそうになりながら、昔ながらの暮らしの話を語ってもらった。ここでは各家庭が雑穀や野菜の種取りをしていたそうで、現在でも原種に近い種子が受け継がれている。急傾斜地ならではの半自給自足と物々交換の文化が、この土地の食生活を守ってきたんだな……なんてことを、芋のような食感のトウモロコシを味わいつつ考えていた。
にし阿波では、標高の低いエリアに暮らす人を「マチの人」、山間地の集落に暮らす人を「ソラの人」と呼ぶそうだ。標高900mの桑平集落に暮らす桑平良得さんは、生粋の「ソラの人」。この集落で生まれ育ち、就職を機に里に下りて長らく「マチの人」として暮らしてきたが、8年前、生家に戻ってきた。玄関から車道までは徒歩10分、物資は私設モノレールで運ぶという「天上暮らし」。「この環境で暮らしたら、もう里には下りられない」と桑平さん。風景はもちろん、誰に気兼ねすることなく自分らしく生きる自由さを、「ソラの人」は愛しているのかもしれない。
桑平集落から峠道をさらに上ると、いよいよ剣山登山口の見ノ越だ。劔神社でご祈祷を受け、西日本第二の高峰へ。山中には山岳信仰の行場あり、平家の落人伝説にまつわる湧水や古木あり、絶滅危惧種の針葉樹、シコクシラベの原生林ありと、みどころがたくさん。ゆるやかなトレイルの両側に現れる雑木林も美しい。あいにくの雨のなか、「頂上ヒュッテ」に到着する。昭和30年にオープンした山小屋は、宿泊者向けの食事が自慢だ。自家製干し大根、自家製こんにゃく、アメゴの天ぷら……。山頂にいるとは思えないほどの郷土料理の数々に舌鼓を打った。
翌朝、早起きしてゴールの山頂へ。360度の大パノラマが広がる……はずだが、周囲は真っ白な雲海に沈んでいた。「晴天の山もいいけれど、雲海の山はファンタジーの世界。日本の山の霧深い風景は、他の国にはない情緒があると思う」と言うヤンニは、にし阿波が見せてくれた幻想的な情景をいつまでも眺めていた。
Trail Guide
※剣山登山には登山用地図をご準備ください