僕はドーナツを食べたいと思った。そのドーナツがあるのは三崎。我が家から40キロほど離れた、三浦半島の南端にあるのどかな海辺の町だ。時は8月。もう8月だというのに、九州と本州のほとんどの地域には二度目の梅雨が来て、7日連続で豪雨が続いていた。あちこちで川が氾濫し、山々の地盤が緩み、土砂が集落を押し流した。雨は容赦なく降り続ぐ。佐賀県の一部は、湯船をひっくり返したような土砂降りに見舞われた。そんな聖書に出てくるような災厄をもたらした豪雨が突然止み、見る間に青空が広って、日本列島に夏が戻ってきた。夏の太陽が降り注ぐ中、僕は愛車のBESV PSA1に乗ってドーナツを買いに出かけることに決めた。
僕の家は鎌倉にある。このコラムでは年に4回、鎌倉を起点としてPAPERSKYと近場を巡り、E-bikeでなければなかなか見られないであろう界隈や町を探索したいと思う。E-bikeなら、長い距離や上り坂は全く苦にならない。20キロの走行も、E-bikeがあれば途端に楽しい小旅行に変わる。鎌倉は―そして鎌倉を擁する三浦半島も―山だらけの土地だ。山道を上ることなく町から町へと移動するのは、ほぼ不可能だ。山道の中には、鎌倉市内を囲んでいる切通し(山や丘を切り開いて通した道のこと)など、千年ほど前から使われているものもある。電動アシストのない一般の自転車に乗っていると、こうした険しい山道を避けてしまう。でも、E-bikeに乗っている時は、山を上った所にあるものを見たくなる。
僕の自転車の旅は、朝7時頃、由比ガ浜海岸から始まった。サーファーに人気の材木座エリアを通り抜け、逗子マリーナリゾートの不思議な世界に入っていく。逗子マリーナは、ワイキキビーチを模したような景観が広がっている。リゾート内にはシェラトンホテルを彷彿させる図体の大きなリゾートマンションが多数あり、引退して余生を楽しむ富裕層や、ヤシの木の並ぶ通りを背景にインスタグラムに投稿する写真を自撮りする観光客の姿が見られる。しかし、何よりも興味をそそられるのは逗子マリーナ本体ではなく、マリーナの先に延びている小坪海岸との経済的格差がもたらすコントラストだ。マリーナからほんの数メートル先にある小坪海岸は、労働階級の人々が暮らす漁村である。
小坪海岸には、古びた小さな漁船がずらりと並んでいる。乗っているのは、何かあると豪快に笑う漁師たちだ。彼らの顔はこんがり日焼けしている。小坪にはまた、小さな魚市場と、魚介類に特化した本当においしい定食屋が二軒ほどある(めしやっちゃん、ゆうき食堂)。海を中心に回っているこの土地には、骨身を惜しまず働き、海と共に暮らす人々の素朴な雰囲気が世代を超えて受け継がれている。逗子マリーナの表層にある高級感とは全く違う。僕は小坪海岸も、小坪と逗子マリーナが描く極端なコントラストも好きだ。
僕は海岸沿いの次の街、逗子に行くために、数人の漁師が集まって煙草をくゆらせている場所のすぐ後ろにある小さな山道をたどって、山の最も険しい箇所を上っていくことにした。その山道はスクーターがやっと通れる広さしかない、急勾配の上り坂である。勾配があまりにも急すぎて、階段を造り付けてある箇所がいくつかあるほどだ。僕が自転車で山道を上っていると、坂を下りてくる高齢の女性とすれ違った。「おはようございます」と挨拶をした時に危うく坂を転げ落ちそうになった僕を見て、女性は笑った。愛車のギアはいちばん低速に入れてある。後輪に付けられた小型のペダル補助モーターは、まるで透明な巨人の手のように僕をぐんぐん押し上げる。最高に爽快な気分だ。道路沿いの崖の側面に、小さな民家が立ち並ぶ小さな集落があった。多くの民家は瓦屋根の古い和風の木造住宅だが、新しい近代的なユニット型プレハブ住宅も混在している。今も使われているポンプ式井戸がいくつかある。細かいことを気にしないおおらかな生活が営まれている感じの界隈だ。ここを抜けるといきなり諏訪神社の横に出る。この神社のある高台は、僕が日本で見た中で、最も細かい決まり事の多い高級住宅街のひとつである。
小坪3丁目は、逗子と逗子マリーナの間にある高台にある。管理組合が管理している住宅街だが、敷地内の道路は住民以外も通行できる。住宅街に隣接する大崎公園からは、海岸線の下から上までを見渡す景色を一望できる。この住宅街は訪れる価値がある。この界隈に立ち並ぶ家々は、世界のどの国の基準で見ても邸宅と呼べる豪華なものだ。どの邸宅も少なくともトイレが4つか5つはある広さで、息を飲むほど美しい庭園に囲まれている。この住宅街は標高の高い山の上にあるため、通常の自転車で行くのは難しい。かと言って、車で見て回るのは気が引ける。けれどE-bikeなら簡単に散策できる。あたかも「ここに来て、あちこちをじっくり見て回り、予想外の場所に広がる超富裕層の住む邸宅街に感嘆のため息を漏らしてください」と自転車に言われているかのように。
僕は逗子を抜け、葉山のカフェ「before sunset」で少し休憩してフィッシュフライサンドイッチとコーヒーの朝食をとった。普段なら、葉山までの約10キロの距離を走れば十分だが、今日は海岸線をたどってまだずっと先まで行かねばならない。僕は葉山が好きだけれど、市内を貫く海岸線沿いの主要道路の国道134号線は好きではない。134号線はぎりぎり二車線の広さしかない道路で、路肩もなく、視界の悪い曲がり角が山ほどある。しかも、葉山に行く唯一の幹線道路なので車が渋滞している。(そういえば、戦後まだ日の浅い時期の狂気じみた輝きに満ちたこの地域の様子が、映画『狂った果実』に描かれている。)僕は134号線の事情に関係なく、葉山市に入って通り抜けることができる裏道を発見した。途中の曲がりくねった山道や突然出てくる川沿いの小道には、おいしいフィッシュ&チップスショップ、素敵なカフェ、ビーガン料理のレストランがあった。
葉山の南に行き、狭すぎるため道路としてギリギリ使えるくらいの、異常に険しい曲がりくねった手つかずの山道を愛車で上って、秋谷という町の集落に入って行く。山の上には畑が広がり、その後ろには自然のままの谷があった。突然、小さな農場の生活が目の前に広がった。この出会いは想像もしなかったのでとても感動し、この風景は僕に、三浦半島は元来豊かな自然に恵まれていること、そして半島の一部には今でも豊かな自然があることを思い出させてくれた。
陸上自衛隊武山駐屯地の横を通り過ぎると、国道134号線から少し西に入り、息を飲むほど美しい高台の上へと向かった。頂上は耕されて農地になっていて、小さな丘の頂に上り、作付け前の広々とした農地と、その遠くに太陽の光を受けて輝く海を眺めた―これほどの喜びがあるだろうか。夕方前の厳しい太陽の下で次々に写真を撮影する僕の隣を、農家の人たちの軽トラがすごい速さで通り抜けていった。
曲がりくねった道を降りていくと、いくつかの集落を抜けて、程なく港町の三崎に到着する。三崎漁港は、山を下りる道の途中で何度か垣間見てきた。港を囲むようにさまざまな大きさの漁船が停まっている。僕は猛烈におなかが空いていた。大人気のそば店「手打蕎麦 葉山商店」が営業していたので飛び込んだ。店内は込み合っていたが、カウンター席に座らせてもらえた。僕は野菜天丼とざる蕎麦を注文し、1955年の三崎の街を撮影した写真のアルバムを手に取ってパラパラとメージをめくる。正直なところ、当時の三崎と今の三崎はあまり変わっていないように見えた。
次はいよいよドーナツである。有名なミサキドーナツだ。鎌倉にも支店がある。だが、好きでたまらないドーナツだからこそ、40キロも自転車に乗ってはるばる本店まで来たのである。愛車のバッテリー残量は半分以下になっていた。だから僕はミサキドーナツのカフェの二階の隅っこの席に陣取り、バッテリーを充電しながら、アイスコーヒーと砂糖衣をかぶせたドーナツを味わいながら、マイケル・ルイスの最新作『最悪の予感―パンデミックとの闘い』を1時間読んだ。
それから帰途に就く予定だったが、僕は突然、もう少し遠くに行ってみたい衝動にかられた。行く先は三崎のすぐ沖合にある城ヶ島 という小さな島である。
僕はその10分後に城ヶ島に着いた。全長2キロ前後、幅数百メートルという吹けば飛ぶように小さな島だ。島内には風雨による痛みが目立つ城ヶ島海南神社とその周囲の整然とした小さな集落、海産物の加工工場が数軒と、造船資材倉庫が1軒ある。僕はふと気が向いて西に進路を取り、城ヶ島灯台を目指して走り出した。 途中、木製の販売台のある店が並ぶ小さな商店街を見つけたが、ほとんどの店のシャッターが閉まっている。ウェディングドレスをまとった女性が1人、カメラマンと一緒に商店街を歩いていた。僕は滑るように自転車を駆って、層が海に侵食されて洞窟状になっている沖積段丘、「馬の背洞門」に続く道を走っていった。馬の背洞門の周りには、何組かの家族たちがテントを張ってバーベキューを楽しんでいる。僕は隠れたエデンの園を偶然発見したような気分になった。のどかな空気が流れている。ようやく雲が出てきて、その日初めて日が陰り、直射日光に我が身を焼かれる心配をしなくてよくなった。
サラリーマン風の男がワイシャツ姿で岩場に座り、海を眺めている。彼の姿はその場の情景に多少の哀愁を添えていた。上半身裸で「甚平彫り」と呼ばれる上半身用の刺青を入れた男数名が酔っ払い、互いを小突き合っている。そうかと思えば、頭からつま先まで1本も毛がない異常に太った男がスピードの水泳パンツをはいて日光浴をしている。その男の妻と思しき女性が息子と、透き通った海の中で遊んでいる。
僕はそこに腰を下ろし、自分が疲れ切っていることに気がついた。この18カ月間というもの、身も心も粉々になるようなつらい日々が続いていた。コロナ禍が起きて、自粛要請があり、2回目のコロナワクチン接種を受けた後に副反応で1週間ほど寝込む羽目になった。それが終わったかと思ったら、今度は豪雨が続き、国連の気候変動に関する報告書が発表され、アフガニスタンで政権が崩壊した。次々に大変な事が起き続けている。こんな状況で、疲れない人間などいるわけがない。僕は立ち上がり、ポケットの中にあるものを取り出してから、服を着たまま冷たい水の中を歩いて行った。ただ心身を清めるために。僕は今年に入って海に触れたのはこれが初めてだということに気づいた。無限に広がる水に入ることで、重苦しい気持ちを一時的に軽くしたかった。入り江の底は水藻でぬるぬるとした岩に覆われている。僕は方向をくるりと変えて仰向けの姿勢になった。そして「自転車周遊の旅を始めるための小さな洗礼の儀式だ」と思った。
心を穏やかにしてくれる入り江の水の中で、そのままずっと浮かんでいたかった。浮かんだまま外海まで流され、ハワイを過ぎて、ゴールデンゲートブリッジの下をくぐってサンフランシスコ港まで運ばれて、何年も会ってっていない友達に挨拶しようと思った。本当にそうしたい誘惑に駆られた。しかし、ラッシュアワーで海岸沿いの道路が交通渋滞する前に帰路に就きたいという現実的な願望もあった。だから僕は生まれ変わったような気持ちで、少し後ろ髪を引かれながら、水滴を垂らしながら自転車のところに戻り、塩水まみれの身体で海岸沿いの道路を北に向かって走り始めた。自衛隊駐屯地を通り抜け、いくつもの丘を越えて、葉山市を通って高級住宅街をいくつか抜けて、今行ってきたばかりの場所にあるドーナツに再び思いをはせながら、40キロの道のりを走った。
愛車について
僕は2020年9月に京都でBESV PSA1を1週間レンタルして、すぐにこのE-bikeの虜になった。4月に自分用(色はマットブラック、言うまでもなく限定モデル)を購入して以来、走行距離は1,000キロを超えている。自分がこれまで手に入れた物の中で、このE-bikeほどの大きな幸せを与えてくれた物は数えるほどしかない。本当に愛すべき魅力にあふれた自転車だ。BESV PSA1に背中を押されてこのコラムの企画を考案し、BESVの社長の協力を仰ぐことにした。偶然にもBESV JAPANのオフィスはPAPERSKYの編集部のすぐ近くにあった。BESVの方々は喜んで協力すると言ってくれた。BESVはこのコラムのスポンサーになってくれているが、僕は彼らから無償の提供物を一切もらっていないし、鎌倉の自宅にBESVの無料貸与車が送られてきたわけでもない。だから皆さんのご想像通り、このコラムに登場する僕の愛車は本当に純粋で、損得の一切絡まない自転車なのである。