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【Papersky Archives】

大漁

すべての道は海に通ず。道の先には、太平洋が地平線まで広がっている。視界をさえぎるものは、港に停泊する漁船の群れと海の向こうからすべてを見下ろす富士山の姿だけ。ここは焼津、日本でもっとも有名な漁港のひとつである。

08/03/2020

Story 01 | 漁師のためのシャツ

遠州屋の店先には品物がちらほらとしか見当たらない。取材に訪れたのが夏ではなかったからだろうか。ガラスの引き戸越しに店内をのぞくと、木製のテーブルの上に木綿のシャツがつまったガラスの棚があり、その後ろに年季の入ったミシンが並んでいるのが見える。「こんにちは」。引き戸を開けて店内に入ると、裏の部屋から内藤キヨが現れ、1台のミシンの前に座った。内藤は現在、86歳。遠州屋の創業よりも4歳だけ若い。彼女の仕事は焼津名物の漁師用シャツ、通称「魚河岸シャツ」を縫製することである。

「シャツをつくりはじめたのは、この家に嫁いできてからですよ」蛍光灯の下で内藤が回想する。「18歳だったねえ。まだ戦時中よ」内藤の夫は従軍先の中国に留まり、終戦後に帰還した。中国から南方へ赴いた同じ隊の仲間たちのほとんどは結局、生きて帰っては来られなかったという。焼津に生きる人たちにとって、死は身近なものだ。誰もが、親しい人を海で亡くしたか、大切な人を海に奪われた人を知っている。遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験で被爆した、あの悪名高いビキニ環礁の事件もあった。魚河岸シャツがかならず縁起柄であるのも無理はない。

内藤は吊ってあるシャツを順に指さす。「こっちはおめでたい松葉の柄、こっちはね、魚の柄。ほら、これも、そっちも。たくさんあるでしょう」。内藤が部屋中に下がったシャツを指して説明する。どのシャツにも魚偏の漢字、魚の模様、魚のマークなどが染めてある。

「このシャツをつくるようになったのは、知り合いの漁師さんに頼まれたからなのよ」。日本には新年や引越などの際、ご挨拶代わりに手ぬぐいを贈る習慣があるが、その手ぬぐい(焼津の漁業関係者のあいだでは、縁起物の魚河岸柄が使われていた)を使ってなにかつくれないかと相談を受け、誕生したのが「魚河岸シャツ」なのだ。薄手で着心地がよく、粋な印象を与えるこのシャツは、あっという間に漁師のあいだに広まっていった。漁師のプライドを示すことはもちろんだが、縁起柄の魚河岸シャツを身につけることは、死から身を守るという意味もあったのかもしれない。

もともと漁師や漁業関係者が着ていた魚河岸シャツだが、いまでは市役所や地元の信用金庫の職員さえもそろいの魚河岸シャツを着ているし、焼津を訪れる観光客がおみやげに買って帰るようになった。こうして魚河岸シャツは、焼津から全国に広がり、各地で日本の漁業の都だった焼津の歴史を物語っている。

内藤は帰ろうとする私たちを引き止め、もっといろんな柄を見ていきなさいと言う。とても86歳とは思えない。近所の人たちも一様に、彼女の元気ぶりには驚愕しているそうだ。「夏はすごく忙しいねえ。てんてこまいだよ。全部手縫いだからね」。本当にパワフルな人だ。この人が元気を失くす姿はとても想像できない。

< PAPERSKY no.32(2010)より >

text & photography | Cameron Allan McKean Coordination | Lucas B.B.