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Nihon Alps 12 views

吉田博の見た日本アルプスへ

Scene6 針木雪渓

明治から昭和にかけて、あくなき情熱をもって世界中の自然を描き続けた画家がいた。洋画家として、またのちに木版画家として活躍する吉田博である。そんな彼が生涯を通して描いたのが山岳風景だった。ここでは、北アルプスを題材に制作された全12点の木版画 「日本アルプス十二題」 の中から毎回ひとつの作品を取り上げ、彼の足跡を辿って北アルプスを歩く。80年以上の時を経た今、彼の作品は何を教えてくれるのだろうか。イラストレーター・成瀬洋平が、今回は吉田博の描いた『針木雪渓』を追う。

02/16/2022

山の先輩/針木雪渓

森を抜けると夏の花々が咲き乱れる明るい谷間が広がっていた。細長い雪渓が白い回廊のようにはるか上方へと続いている。さっきまで曇っていた空には青空が広がり、真っ白いガスが雪面に青い影を落としては流れてゆく。軽アイゼンを登山靴に取り付け、雪の厚い場所を選んで雪渓へと足を踏み入れる。雪渓の中ほどに、先を行く登山者が小さな黒い影となって見えている。

当時の登山者の多くがそうであったように、吉田博もまた人夫や案内人を雇い、ひと月からふた月にもわたる山旅の荷物を運んでもらっては山の奥深くへと分け入って行った。絵を描くために山に篭った吉田博がもっとも大切にしたのは、気に入った風景に出会った時に感じる「清新な感興」だった。一度来た感興は何度も繰り返されるものではない。ふと気に入った場所が見つかったらすぐさま絵に取り掛かれるように、彼は絵を描く元気を他のことで消費しないように心がけた。彼は荷物を一切持たず、6、7割の速度で歩き、決して人より先に行こうとしなかった。その代わり、一旦筆を取ったら、歩くより一層烈しい疲れが出ても描き終えるまでは非常な元気で押し通して描いたという。

藪などの障害物がない針ノ木雪渓は、効率良く登降できる自然の登山道だ
illustration | Yohei Naruse
吉田博も作品に残したコマクサ。朝露に濡れた姿は息を呑むほど可憐である
illustration | Yohei Naruse

雪渓は途中で傾斜を増した。日差しを受けて柔らかくなった雪面にアイゼンの歯を利かせて順調に高度を上げてゆく。振り返ると、高く見上げていた爺ヶ岳の稜線が近づいていた。やがて谷は細くなり、割れ目の多い雪渓の上部を避けて道は雪面から外れた。雪融け水で身体を潤し、針ノ木峠への最後のつづら折りを登ってゆく。

山旅で関わった多くの人々の中でもとくに、博は「山の先輩」として三人の山男の名前を挙げている。登山家の案内人として知られ、晩年を上高地の明神池の畔の小屋で過ごした上條嘉門次、黒部の平ノ小屋に住んでいた遠山品右衛門、そして博が日本アルプスに登る度に伴って歩いた小林喜作である。

吉田博「針木雪渓」 1926(大正15)年 福岡市美術館 蔵

「針木雪渓」の左から2番目には「気立ての善良な、極めて愛すべき男」と博が敬愛し、絶対的な信頼を寄せていた小林喜作の姿が描かれている。安曇野に生まれ、もともと猟師をしていた喜作のことを、博は「山に対しては、一種不思議な、動物のように鋭い感覚を持っていた」と言い、「喜作が一言いかんといえば、必ずそこには我々の気づかないそれだけの理由があった。感服に堪えないのは、事の起った時の態度である。そんな時少しもあわてるということがない。常に沈着で勇敢で、そして注意深い」と書き記している。そんな小林喜作にまつわるエピソードを博はいくつか残しているが、そのひとつにこのようなものがある。

アルプスの縦走も終着点の上高地に近づいていた。前穂高岳の頂上へ差し掛かると、上高地の清水屋の息子がテントを張っていた。清水屋の息子は「ここまで来れば、後はもうすぐですから」と、彼らにお茶を勧めた。博は山では何の物惜しみもせず、自分と同じ食べものを人夫たちと分け合ったが、秘蔵のウイスキーだけは別だった。しかし上高地まで行けばウイスキーも自由に手に入る。そう思った彼は、ウイスキーを人夫たちにも勧めた。博はお茶の中へウイスキーを混ぜて飲んだだけだったのだが、酒好きな喜作はウイスキーの中へお茶を混ぜるといったやり方で、ウイスキーを主にしてだいぶ飲んでしまった。これがいけなかった。

テントを出発してしばらく歩くと、彼らはガスに巻かれてしまう。いつもの喜作ならガスに巻かれたところで道を間違えるはずがない。しかし彼の勘はアルコールによって鈍っていた。「道が違いやしないか?」という博の問いかけに、喜作は「確かに違う」と答える。喜作はもとの道に引き返すのはとても大変だから、下の断崖を降りて行こう、そうすればもとの道の下の方へ出られますから、という。日本アルプスならどんな道のない場所のことでも心得ている喜作の言葉である。博は喜作の言葉に同意し、金かんじきをつけた喜作は博らとロープを身体に結んで、落ちそうになる博の襟元を支えながら雪の張り付いた断崖を下って行った。ところが道は見つからなかった。去年までの道はその年になって変わっていたからだ。以前の道の方を辿って歩くと、曲がりくねった枝が密集して突破するのに時間と労力がかかるシャクナゲの森に出てしまった。仕方なく別の道を探し始めたのだが、その頃にはすっかり日は落ちてしまっていた。暗がりの中でさまよい続け、はるか遠くに河童橋の灯が見えたその時、不意に喜作が「出たッ!」と叫んだ。博は何が出たのか飲み込めずにいたが、それはとうとう道に出ることができたということだった。

結局彼らが上高地に着いたのは夜の12時になっていたというが、「そんな所から道に出られようなどとは、とても私たち素人には分からない場所であった。たとえそこに道はあっても、それが道だということを、私たちなら気づかずにしまうところをさすがは小林喜作だと思って、内心大いに感服した」と、博はこのエピソードを喜作に対する愛情と信頼、そして山で共に過ごした時間への愛しみに溢れる筆致で描いている。

それほど山に精通した喜作だったが、息子とカモシカ狩りに行っている時に雪崩に遭い、息子共々圧死してしまう。それは大正12年のことで、吉田博が「日本アルプス十二題」を発表する3年前のことだった。  

初夏の剱岳は豊富な残雪を抱き、朝日を受けて青白く輝いて見えた
illustration | Yohei Naruse

針ノ木小屋にテントを張り、針ノ木岳の頂上へ向かう。時折見えていた青空も灰色の雲に覆われてしまい、登るにつれてガスが濃くなってきた。夕刻が近づいているためか、ガスは心なしか紫色を帯びている。頂上へたどり着く頃には小雨が降り出し、頂上からの展望は望めなかった。テントに戻ろうと立ち上がったちょうどその時、風がわずかに強くなり、ガスを北へと押し流した。一瞬だけ切れたガスの狭間から、谷のはるか下方に乳緑色の水を湛えた黒部湖が姿を現し、渦巻く雲の向こうに、豊富な残雪を抱いた山々が、青灰色の影となってかすかに浮かび上がった。すぐにガスにかき消されたその風景は、その日最後の山からの贈り物のようだった。

<PAPERSKY no.31(2009)より>


route information

針ノ木雪渓は白馬、剱沢と並んで北アルプス三大雪渓のひとつ。毎年6月の第一日曜日には大沢小屋、針ノ木小屋を建設した百瀬慎太郎を偲ぶ慎太郎祭が針ノ木雪渓で行われ、登山シーズンの到来を告げる開山祭となっている。雪渓はおよそ3時間続き、上部は傾斜も急になる。シーズンはじめや雪渓歩きに慣れていない人は6本爪程度の軽アイゼンを使用すると良い。雪の融け具合によって雪渓への取り付きや出口が異なるので注意。針ノ木小屋のある針ノ木峠は越中と信州を結ぶ間道として古くから知られている。蓮華岳から烏帽子岳への縦走路はやせ尾根や崩壊している部分が多く、アップダウンが激しいので健脚者向き。扇沢から高瀬ダムまで歩くには通常3泊4日を要する。



成瀬洋平
1982年、岐阜県生まれ。都留文科大学大学院修了。広告代理店勤務の後、フリーのライター、イラストレーターとして活動中。