自らのタイミングで始動のときを決断せよ
地球暦の考案者・杉山開知が、そのときどきの、リアルタイムの星の動きを解説。その話からインスピレーションを受け、スウェーデンのピザ屋「Omnipollos hatt」がピザを創作。地球暦×Omnipollos hattのコラボレーションにより、新作メニューが毎回誕生します。
New Year
2023年 新年
1月1日 グレゴリオ暦(冬始まりの太陽暦)
イタリア、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ、日本など
1月22日 旧暦(春始まりの太陰暦)
中国、シンガポール、マレーシア、ベトナム、台湾、韓国、北朝鮮など
2月21日 チベット暦(春始まりの太陰暦)
ブータン、チベット、ネパール
3月21日 ヒジュラ暦、マヤ暦、地球暦(春分始まりの太陽暦)
イラン、アフガニスタン
3月22日 ヒンドゥー暦(満月終わりの太陰暦)
インド、インドネシア
4月14日 ビクラム暦(4月始まりの太陽暦)
ネパール
7月19日 イスラム暦(純粋太陰暦)
サウジアラビア、UAE、インドネシアなど
9月16日 ユダヤ暦(秋始まりの太陰暦)
イスラエル
11月14日 ヒンドゥー暦(新月終わりの太陰暦)
インド
始まりはどこに
曜日で成り立つ1週間はさも共通認識のようではあるけれど、人によって区切りのおきどころはじつは違っている。だって、1週間を日曜から始めたいか、月曜から始めたいかということにしたって、人によってたいがいこだわりがあるだろう(意識が地球暦に準拠していて曜日感覚に疎い開知さんは、どちらでもいいそうだが)。
実際、カレンダーやスケジュール帳は日曜始まり、月曜始まりのどちらの商品も存在するし、iPhoneのカレンダーだって、どちらにも設定できるようになっている。職業別に考えてみると、美容院なら月曜定休の店が多いから、美容師の月曜はサラリーマンの日曜に該当するといえる。土日がかき入れどきのサービス業に従事しているなら、金曜の夜が、週末休みの人にとっての日曜の夜の感覚になるだろう。
週末生まれが少ないわけ
地球暦=円で捉えると、1年間が一目瞭然に視覚化されるため、これまで見えていなかったものが見えてきたりする。開知さんは以前、厚生労働省が発表した2019年度の人口動態調査を地球暦に落とし込んでみたことがあった。すると驚くべき事実が浮かび上がってきたという。
1日平均では2~3,000人が生まれているのに、休日となると約1,000人ほど少なくなるというのだ。週のなかごろが最も出産率が多く、連休と年末年始は極端に少ない。その理由はおそらく、休日や深夜などの休診時間には割増料金がかかるからではないか。「病院の診療時間に合わせるという、僕らの意識が働いている結果ではないでしょうか」と開知さん。
ひとりの人間が誕生するその瞬間において、曜日は無関係に思える。その実、曜日を感覚する意識は、命をコントロールするほど大きな影響力をもっているのだ。
意識がつくる境界線
週だけではない。1月、4月、9月と、月始まりの異なるスケジュール帳が各時期に売り出されることからも自明のとおり、新しい年の始まりだって見解はそれぞれだ。グレゴリオ暦は1月1日、地球暦は春分の日を新年に設定しているが、アジアに広く浸透している旧正月は2月だし、複数の暦を使うインドやインドネシアでは1年の間に何度も新年が訪れる。
そもそも、旧年と新年の境だってつくづく不思議だ。大晦日に5、4、3、2、1とカウントダウンして、0になったとたんにウワーッ!と盛り上がる光景はよく目にするところ。でも、5秒前と今とで、一体、この世界の何が変わったというのだろう?
インドで複数ある国定暦のうち、ひとつは新月始まり、別のひとつは満月終わりという設定になっている。つまり、始まりで始めるのではなく、終わりで始めるのも可能だということだ。始まりにせよ、終わりにせよ、区切りをどう設定するかは、スケジュール帳選びという個人のスケジューリングから国家の運用に関わる事案まで、じつにフレキシブルなのだ。
「逆にいえば、そのような設定をすることで、そのような文化が立ち上がってくる、ということです」
暦とは、時とは、そう、人の意識がつくり出しているもの。人間以外の動物は行わない、最たる行為なのだ。自分が何を信じるかによって、設定は変化する。ということは、どう区切ったって、あなたの自由だ。さあ、あなたは、始まりを、あるいは終わりを、いつにする?
A SLICE OF SPACE
ニューイヤー・エニタイム
スパイシーなトマトの太陽、ほうれん草とハーブの地球、フルーツの三日月。1枚で3つの味を楽しめるピザは、どこから食べ始めてもOK!
杉山開知 Kaichi Sugiyama
1977年、静岡県生まれ。独学で暦を研究、地球暦考案に至る。じつは地球暦誕生のきっかけのひとつは、ピザ屋のアルバイトで時間についての極まりを経験したことにある。