近代の手が届かないロマンス|Yaeyama weavers|染織 3

新絹枝が身にまとった藍色の着物の袂をたくし上げると、織り上がった布に日光が影を落とす。「その着物はお手製ですか」と私たちが訊くと、「終戦後はね、織物ができない人は何も着られませんでしたよ。着るものなんてどこにもありません […]

04/07/2020

新絹枝が身にまとった藍色の着物の袂をたくし上げると、織り上がった布に日光が影を落とす。「その着物はお手製ですか」と私たちが訊くと、「終戦後はね、織物ができない人は何も着られませんでしたよ。着るものなんてどこにもありませんでしたから」という答えが返ってきた。着るものは白い腰巻に至るまで、すべて自分で織っていたという。「服は買うものじゃなくて、自分でつくるものでした」。
新は89歳。若いころに関する質問の答えには、少し考える時間が必要になっている。「いつごろ織物を始めたのですか?」「1940年代の島はどんな様子でしたか?」「戦争によって生活はどう変わりましたか?」こんな質問をするたびに、彼女はにやりと笑ってしばし考え込む。
「女たちは目がまわるほど忙しくしてたわねえ」、新は1930〜40年代の生活を回想しながら言う。「夜明けから真夜中まで、とにかくずっと織っていたけど、途中で畑仕事もしなきゃならなかったし」。新は石垣島の隣にある竹富島の生まれだが、育ったのは台湾である。終戦後にようやく沖縄に戻ることができたという。それから母が話してくれたことを思い出し、終戦の前日の記憶が蘇ってきた。そして車もなく、洋服もない時代に話題が移り、みんさーと呼ばれる長い、幾何模様の布の思い出を話してくれた。
八重山上布と同じく、みんさー織りも八重山諸島で生まれた織物である。しかし、一方的に課された人頭税を思い起こさせる八重山上布とは違い、みんさー織りは愛や古い伝統を連想させる。その歴史は古く、新が織り始めたころには、みんさーが消えてからかなりの年月が経っていた。
新は母が聞かせてくれた話を通じて、昔の女性は変わらぬ愛の証としてみんさーを織り、恋人に贈っていたことを知った。愛は島々を隔てる海を越えて強く育ち、違う島にいてもふたりはみんさー織りを通じてしっかりと結ばれる。表面の幾何模様には「いつでも私のところに戻ってきて」というメッセージが込められているという。
数十年にわたる新と弟子たちの熱心な活動により、みんさー織りの伝統は復活した。だが、それが果していた役割は忘れられている。だからこそ今、みんさー織りがこれほど重要になっているのだ。八重山の失われた伝統を、今、生きている人間の物語に織り込むこと。それが21世紀にみんさー織りが果すべき役割である。それは、近代の手が届かない緑豊かな孤島で何世紀にもわたって生きてきた人々に、私たちをつなげてくれるものである。
新絹枝
みんさー工芸館館長。八重山みんさー織を現代のかたちに復活させ、多くの講習生を養成し、女性の雇用や八重山文化の発展にも貢献。