日本の端にある苧麻|Yaeyama weavers|染織 2

潮風が石垣の町全体に吹き渡り、3階の窓から入ってくる。木製の織機や、その前に座る女性たちの間を縫って吹き、別の窓から外へと抜け、パイナップル畑を通過して島の反対側の礁に消えていく。 上原久美の視線の先には、布を織る女性た […]

04/01/2020

潮風が石垣の町全体に吹き渡り、3階の窓から入ってくる。木製の織機や、その前に座る女性たちの間を縫って吹き、別の窓から外へと抜け、パイナップル畑を通過して島の反対側の礁に消えていく。
上原久美の視線の先には、布を織る女性たちの姿がある。ぴんと張った経糸の間に、杼を何度も滑らせて緯糸を通すと幾何模様の絣が広がる布が織られていく。織物組合で八重山みんさーを学ぶ講習生だ。
「これは組合のみんなで収穫しました」と上原が島ではブーと呼ばれる苧麻の繊維を指して言う。苧麻は八重山上布の大切な原材料である。織物組合には苧麻の畑があり、共同作業で栽培している。収穫した苧麻は島のおばあさんの手元に渡り、根気のいる作業で細く美しい糸に績まれるのだ。17世紀半ばから20世紀前半にかけて、八重山諸島の15歳以上の女性は八重山上布を年貢として納めねばならなかった。その時代には、苧麻は各家庭で栽培されていた。年貢の制度がなくなったあともそれは続き、多くの八重山上布が織られた。ところが第二次世界大戦の終わりごろには、苧麻の畑は食料の畑に変わり生産量も減っていく。八重山上布が衰退し、伝統が消滅する危機に瀕するなか、1970年、自治体が苧麻の栽培を再開。地元の伝統工芸を―おそらく島民のアイデンティティも―取り戻すために、織物の指導・普及活動も開始した。しかし、これは生易しいことではなかった。女性ならば誰でも機を織り、糸を績むことができる時代ではない。経験豊かな織り手、苧麻から糸を績むことができる女性はわずかしか残っていなかったからである。
1階にある染色室で、上原は糸の束に指をくぐらせるようにして、糸を整えていた。その糸は、美しく染めた女性の髪の毛のようだ。染色室に渡された竿には、糸の綛がいくつもかけられ、乾くのを待っている。「茶色に染まる紅露は沖縄本島では自生していないんです」と上原は話す。「石垣島か、それより南の島でしか採れない植物染料です」。また、苧麻は年に3回から4回収穫されるが、それでも手績みされた苧麻の糸が十分だったことはない。私たちが話を聞いた織り手全員が、島内で良質な手績みの糸を十分に調達できないのが現状だ。
上原は47歳で、八重山上布の織り手である。家族は石垣島の出身だが、自身は東京で生まれ育った。島にやって来たのは20歳になってからだという。近年、織り手は自分の意志で織物の技術を習得することを選んでいる。
何世代にもわたって母から娘へと受け継がれてきた織りの技の循環が、第二次大戦を挟んだ数十年の間に大きく損なわれた。手仕事は一度手放してしまうと取り戻すことは容易ではない。上原は今、持っている技術を手から手に伝え、そして伝統をつなげていくことを、島の女性たちとともに取り組んでいる。
育むべき財産は、苧麻だけではない。
上原久美
石垣市織物事業協同組合員。後継者育成事業や、織物の素晴らしさを伝える展示会の開催などに組合の理事として励んでいる。