旅のパートナー・船越雅代さんと「好吃=おいしい」を見つけに

異国の地で誰とも会わず、ひとりでも、その場所を知ることはできるけれど、”人”とつながることで、もっと深く入り込めるだろう。そしてそのとき、”食”は強力な媒になるにちがいない […]

12/07/2015

異国の地で誰とも会わず、ひとりでも、その場所を知ることはできるけれど、”人”とつながることで、もっと深く入り込めるだろう。そしてそのとき、”食”は強力な媒になるにちがいない。旅する料理人、船越雅代さんは「それこそが、私にとって、ほぼすべて」と明言する。食をツールに、台湾では、どんなコミットができるだろう。
子どものころから食べることが大好きだったという船越雅代さん。つくるほうへの興味が湧いたのは、なんと絵本の『ちびくろさんぼ』がきっかけだった。
「お母さんお手製の、高く積まれたあのパンケーキ! バターをたっぷり塗って食べているのが、とにかく印象的でした」
そこからクレープ、ホットケーキと、いろいろな粉ものに挑戦していた小学2~3年生時代。例のちびくろさんぼのパンケーキは、5年生のときに実現させた。
「たくさん焼いて、バターを間に塗っては重ねて。それをラップでぐるぐる巻きにして、友だち10人くらいで遊びにいくときに持っていったんです。何艘かに分かれてボートに乗ったんだけど、みんなに食べてほしいから、フリスビーみたいにボートからボートへと、パンケーキをパスしてね(笑)」
じつはそのできごとが、料理人としての雅代さんの原点だ。「今やっているイベントは、パーティとかお祭りみたいなもの。みんなが楽しんでいるのを見るのがすごい好きなんです。小学生のときにやってたことと結局、変わってないなあって」。
それでも料理はあくまでも趣味だったから仕事にするという発想はなく、大学はアートの道へ。ニューヨークでコンセプチュアルアートを学んだ。日常と非日常、現実と非現実。その境を意識させるような作品を制作しているうちに、体に毎日入れる日常の象徴的な存在として、食べ物をツールとして使うことが自然に増えていった。
「どうしても小難しくなりがちなアートとしてくくるのではなく、ただ、料理をつくって食べてもらうということ。もしかしてそのほうが、私のやりたいことがよっぽどストレートに伝わるんじゃないかって、思い始めたんです」
こと、アートがビジネスとして確立されているニューヨークでアーティストとしてやっていくには、生き馬の目を抜く勢いでバリバリやらないと生き残れない。そのしんどさを、友人たちに料理をふるまうことで解消し、それが自らを満たしていくことにも気がついたという。いつしか料理そのものが、雅代さんの表現になっていったのだ。
時は2000年ごろ、アメリカが食に目覚め始めた時代。「ニューヨークのトップレストランは、世界中の食材を貪欲に使いまくっていました。日本のものなら柚子やわさび、かんずりなど。時にはその使い方がすごい間違ってたりもするんだけど(笑)、とにかくなんでも吸収したいという感じでキラキラしていて、業界自体がとてもエキサイティングでした」。
そのムーヴメントに飛び込むように、美大を中退し、料理の専門学校へ。運命的で必然的な人たちとの出会いを経て、ニューヨークの一流レストランの厨房を数年経験。フランスに飛んでフレンチの研修も経たころ、オーストラリアのサーフブランドがもつ船のシェフにならないかと誘われた。
「レストランの厨房にしばらくいて、1日中、日光を見ないことも当たり前だったし、コックとして働くことに対して自分のなかで一段落ついていたときだったんです。船だったら、1日キッチンにいても船のほうが動いてくれるから、いろいろ行けるじゃない?」。これはもしかしたらおもしろいのではと「わりと直感で決めてしまい」、乗船した。
1~2ヶ月のスパンでおもに大西洋を巡る間、各地の港、港で食材を調達しながら、毎日3回休みなく、ゲストとクルー合わせておよそ20人分の食事をつくる。
「遭難のことも考えて、2ヶ月くらいサバイバルできる食料を揃えて。お肉は冷凍できるし、魚はたいてい釣れるんだけど(笑)、野菜などは現地で調達するしかない。昼はベトナム料理や和食など、飽きないようにいろいろつくりました。夜はたいていコース。でもレストラン経験があるから、20人分つくるのはそんなに大変じゃない。腕がなまらないように、朝はなんでもリクエストを聞くって自分に課していました」
現地で調達したもので即興的に料理する。今、雅代さんがやっていることと、ダイレクトにつながる仕事だ。過酷な環境で料理人としてかなり鍛えられたであろうこの仕事のあと、バリの老舗名門ホテルでシェフをしていたときに、京都のキルンの立ち上げメンバーとして声がかかった。
「ずっと海外でやっていて、根無し草みたいだったから、日本で拠点があったらいいなって気持ちがずっとどこかにあって。店づくりのコンセプトから入ることができたので、コミューナルテーブルを中心に火の見える場所で料理をするという、ずっとやりたかったかたちでお店をつくりました」
シェフとして、また店の顔として、約2年務め、今年の3月からはどこにも所属しない、個人の料理人となった。そう、ちょうど今、彼女は大きな転機を迎えているのだ。京都に住んだおかげで、自分が本当にやりたいことが、この歳になってやっとわかったのだと笑う。
「京都は町のサイズがコンパクト。車で15分も走れば畑があり、生産者と直接やりとりができます。季節もはっきりしていて、旬のものしかない。そのときあるものを、そのときに出すってことを、日常的にできる場所なんですね。何がつくりたいかが最初にあるのではなくて、まず、ものをつくる人とつながって、その人が今つくっているものを取り入れる。何が表現できるかは、それからの話。なるべく空っぽにした自分に入ってきたものを、自分をとおして出して、その場にいる人たちとシェアすること。女性だからっていうのもきっとあるけれど、流動的で受容的。自分が受け身から始めるスタイルだってことに気がついたんです」
表現にはさまざまな手法があるけれど、雅代さんの場合は我を誇示するのではなく、巫女になるということなんだろう。しかも、食べてしまえばなくなってしまう、シェアした時間は過ぎ去ってしまう、無常の世界だ。だからこそ、そのいちいちが、かけがえのないものになる。料理学校を卒業後、厨房に入ってからこっち、アーティストではなく料理人として一心にやってきた。それがいつからか、雅代さんのなかでアートと料理が再び融合してきたのだ。
「これまではある意味、シェフとして決まった場所に縛られていた身でしたが、これからはいち表現者として、やりたいことを、やりたい人とやっていきたい。私の料理を通じて、その時間と空間をみんなでシェアするということ、もともとアートでもやりたかったことなんだけど、それを食でやっていきたいんです」
だから包丁一本で、雅代さんはどこにでも出かけていく。食べるという行為は、人種や宗教を超えて、万人が、つねに向き合うことだから。
 
船越雅代 | Masayo Funakoshi
料理家。東京生まれ。ニューヨークのPratt InstituteとInstitute of Culinary Educationで美術と料理を学ぶ。Blue Hill、Union Pacific(ともにNY)のコックや、Tandjung Sari Hotel(バリ)、Billabong(オーストラリア)の船上シェフ、Kiln(京都)のシェフ・ディレクターなどを経験後、独立。現在は京都を拠点に、旬の地物を使った料理をとおして人とコミュニケートすべく国内外で活動中。
 
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