緑、水色、くすんだ茶色、黒色の洪水|入谷朝顔 (3) 雨間秀浩

東京では昔、河川が毎年のように氾濫し、そのたびに下町が泥の海と化した。これは草、野草、多肉植物、樹木などの植物の生育にとってすばらしい環境となった。だが、19世紀後半の東京に緑をあふれさせたのは、地形や気象条件ではなく、 […]

09/17/2015

東京では昔、河川が毎年のように氾濫し、そのたびに下町が泥の海と化した。これは草、野草、多肉植物、樹木などの植物の生育にとってすばらしい環境となった。だが、19世紀後半の東京に緑をあふれさせたのは、地形や気象条件ではなく、人々の間に広がった植物ブームだった。種苗問屋は希少な品種を求め、日本中をまわって東京で販売できる突然変異種の朝顔を探した。
「ひとつの突然変異種を得るために、何千株もの朝顔を栽培しなければなりませんでした」と雨間秀浩は語る。「挑戦としてはおもしろいかもしれませんが、東京にはそれだけの株を栽培できる土地はなかなかありません」。雨間は私たちに、庭と2階のベランダで栽培している朝顔の苗を見せてくれた。ずらりと並んだ小さな植木鉢。どの植木鉢にも若い苗が育っていた。「私は今年で77歳になりましたが、小さいころからずーっと朝顔が好きでした」。朝顔の苗のひとつを虫眼鏡で確認しながら、雨間が話す。1804年から1829年にかけて、変化朝顔の栽培を趣味として楽しんだ人の大半は上流階級だった。彼らが夢中になったのは、これまでにない色(くすんだ灰色や茶色など)や、見たことのない形(渦巻き、はさみ、針、吹雪に見える形など)を生み出すことである。1848年から1860年にかけて、2回目のブームが訪れた。商人、庶民、農民が変化朝顔の栽培に手を染めるようになり、東京では、従来の変化朝顔の趣味が変化した。雨間は本棚を探して次々と資料を取り出す。やがて私たちが囲んでいたテーブルの上には、さまざまな朝顔の種が載った資料でいっぱいになった。
「当初は、めったにない色や形の花を生み出していました」、雨間は変化朝顔のイラストを集めた本を指さして説明する。「今では、いちばん大きな花を咲かせることを目指すようになっています」。外で見た苗を育てている目的は、まさにそこにある。すなわち、可能なかぎり大きく美しい花を咲かせることだ。1888年に始まった3回目のブームでは、突然変異種の朝顔をつくることより、できるだけ大きな花を咲かせることが重視されるようになった。彼は再び資料の山を探し始め、自分で保存した朝顔の花を取り出して見せてくれた。それは驚くほど大きな薄ピンク色の花弁で、写真のように平たい押し花になっている。「私は大きく美しい花を咲かせる大輪朝顔の栽培を続けています」と雨間は語る。「そうしている間に、いつか突然変異種が生まれるかもしれませんから」。そう言ってから、ある本を手に取ってページにざっと目を通す。「これまで、新しい突然変異種を5〜6種類つくったことがありますが…」再びページをめくり始め、「これだ。紫より黒に近い色をしているでしょう」と言って、写真を見せた。このような突然変異種をつくれるかどうかは「運頼み」だという。だが、それ以上の秘訣はないのだろうか?「もちろんありますよ。朝顔には愛を注いでやること。朝と夕方に水を飲ませないとね」と雨間は言う。「私も喉が渇きますからね。朝顔も同じです」。
 
雨間秀浩
大輪朝顔に特化した東京朝顔研究会の会長。東京朝顔研究会は、明治40年に設立された日本一の大輪朝顔の会。