焼野原の後に開いた花|入谷朝顔 (2) 長恒男

1945年3月の東京大空襲は、一面を焼野原に変えた。残ったのは車や遺体の残骸と、黒焦げになった柱や梁だけだった。B-29爆撃機の編隊が積んできた焼夷弾を落とし、サイパンの米軍基地へと帰路を取ったころには、東京の下町全域が […]

09/09/2015

1945年3月の東京大空襲は、一面を焼野原に変えた。残ったのは車や遺体の残骸と、黒焦げになった柱や梁だけだった。B-29爆撃機の編隊が積んできた焼夷弾を落とし、サイパンの米軍基地へと帰路を取ったころには、東京の下町全域が炎に包まれていた。東京大空襲による大火が10万人以上の命を奪った。だが、火事は人間の命だけでなく、科学知識、伝統、芸術、思い出までも奪っていった。
「すべてのものが焼き尽くされてしまい、残ったものは何もありませんでしたよ」と長恒男は入谷にある事務所で言った。彼は83歳で、毎年7月6日から8日まで開催される日本最大の朝顔市、入谷朝顔まつりの実行委員長を務めている。「戦後、東京を復興させたいとみんな願うようになりました。そのときに思い出したんです。そうだ、入谷には朝顔があったじゃないか、と」。地元の有志と下谷観光連盟の人々が、入谷の町のあちこちに田んぼと植木店があり、19世紀に江戸の町に暮らしていた植物好きの人々が草花を買いに来ていた黄金時代を後世に伝えるために、新しい夏祭りを生み出した。
長は私たちを先導して道を歩きながら、1912年に最後の植木屋が消える前の町の様子を想像できるように説明してくれた。「このあたりに植木屋が並んでいて、いちばんきれいな花を咲かせるためにいろいろな品種を交配させて競い合っていたんですよ」。そう言って、多くの人が行き来する街中の通りを指さす。それから私たちを朝顔市の会場に案内してくれた。近年は40万人以上の来場者でにぎわっているが、開始当初は閑散としていたという。
「50年前は、東京のどまんなかから芸者を連れてきて、入谷の朝顔市を宣伝したもんです」。やがて祭り会場の中心となる入谷子母神に到着した。歩きながら長が聞かせてくれた話は、さまざまな時代へと飛びながら続いた。彼の話は続いて、最初の朝顔ブームに移る。子母神へと続く砂利道に立ち、朝顔の控えめな花は下町の夏のシンボルだったという話を聞く。歌舞伎役者と芸者が仕事帰りや夜明け前にここに集まり、ひんやりと涼しい空気のなかでおしゃべりを楽しみながら、夜明け前の徐々に明るくなる光を浴びてうっとりするほど美しい色の花が咲く様子を愛でたのだという。
 
長恒男
日本一の朝顔市である入谷朝顔まつりの実行委員長。入谷朝顔まつりは、昭和24年にスタートし、今年で66年を迎えた。